国民教育省(MEB)が発表した新カリキュラムを各分野の専門家たちが評価した。ボアズィチ大学のネスリン・オゾレン教授は、進化論の説明なしに抗生物質に対する抵抗を説明することはできないと述べ、「ダーウィンの名に言及されており、変異や突然変異などの概念があるが、寄せ集めのようだ」と述べた。カリキュラムにおいて見解が考慮されなかったことを明らかにした専門家らの説明は以下の通り。
■生物学は寄せ集めのよう
ネスリン・オゾレン教授(ボアズィチ大学分子生物遺伝学部教員、分子生物学会理事長):
私たちは、進化が生物学において1つの屋根を形成しており、その枠の中で様々な概念が処理されていることを強調した。しかしいくつかの概念はばらばらに別々の巻に記載されている。統一性がない。寄せ集めのようなものだ。進化の過程を説明せずにこれらのテーマ、たとえばバクテリアが何故抗生物質への耐性を持つのか、どうやって説明されるのか?
さまざまな種の系統が何故絶滅したかをどうやって説明するのか?この基礎を教えることなく変化する我々の世界における過程をどうやって教えるのか?進化という単語と定義を教えられることなく、ダーウィンの名に言及している。変異や突然変異などの概念もある。あらゆることをもはや取り除くことは不可能だ。なぜなら生物学を、細胞を理解することは不可能だからだ、これらを排除したならば。
一部の当局者たちは「大学で教えられる」と言う。これでは遅すぎで、特に大学生になる割合は2・30%以下だ。大学で生物学を学ぶのは学生の一部だ。例えば、工学部生は学ばないかもしれない。(ノーベル化学賞を受賞したトルコ人生物学者)アズィズ・サンジャル先生の功績が載せられていることは非常に有益だ。しかし「DNA複製とアズィズ・サンジャルの研究」として記載されている。アズィズ・サンジャル教授はDNA修復機構についてノーベル賞を受賞した。DNA複製とは別だ。注意する必要がある。
■トルコ人哲学者が記載されていることを光栄に思う
ベチュル・チョトゥクショケン教授(マルテペ大学哲学部教員):
哲学の授業は、哲学の歴史に基づく情報の積み重ねのみであることから断固救われるべきであり、さらに早い学年で始めることも必須だった。このステップが踏み出されたこと、哲学の授業が第10学年にも置かれたことを見て嬉しく思う。新たなプログラムでは、2009年のカリキュラムで8ユニットからなっていた単元が第10学年に、さらに直接的かつ意味のある移動をされた。哲学の構造と雇用者が何であるかの詳細が説明されたこれらの単元で、このテーマに尽力したトルコの哲学者たちも掲載されたことは非常に喜ばしいことだ。第11学年の学習要綱に私が行った批判の一部は妥当なものとして続いているが、名前などの問題における間違いは修正された。「現代の哲学」という単元では、「共和国期トルコにおける哲学」のテーマにより重きを置くべきだった。現在のトルコで、我々が哲学のつながりにおいて世界規模で競争できる蓄積を持っていることを、この分野に半世紀の間尽力してきた1人として、容易に言うことができるからだ。
■科学は理論上のものではない
ベキル・ユルマズ准教授(ムシュ・アルパルスラン大学科学教育学部教員):
工学の適用が広がった。これは以下のことを示している。科学はもはや理論ではなく実用すべきものとなるということだ。だが教員たちはどれだけ準備ができているのか?天文学に関しては大きな変化がある。成果は減ったとしても、テーマと範囲について言えば減ることはない。日常生活におけるプログラムの恩恵は旧カリキュラムに比べてより多い。数学と科学のつながりは、以前のカリキュラム同様新たなカリキュラムでも完全には記されていない。説明では数学とのつながりが作られたと言われているが、これが話題とならなかったことは明らかだ。新たなカリキュラムでは、新たな基礎力に基づいている。しかし一部は成果によって十分なレベルで支えられていない。実際、この基礎力はよく考えられているが、いくつかは機能しないままとなるだろう。
■修正された個所もあるものの
ベチュル・タンバイ教授(ボアズィチ大学数学部教員):
進化を説明せずに抗生物質を説明することはできない。
要綱によると、非常に多くの修正された側面を見ることができた。数学が国民的・精神的価値を与える授業ではないことが少しさらに意識的に書かれた。それでもなお「価値教育」の部分は数学の観点から適切ではない。
特に「潜在性」という単語は数学とまったく似つかわしくない。獲得される鍵となる能力に「質問をする能力」を加えるという我々の要望は見られなかった。
極限、連続、微分係数、積分といった問題が「数と代数」という単元の下で教えるべきではないこと、「分析」という単語が使われることが必要であると我々は言っていたものの、聞き入れられなかった。
■カリキュラムは学校だけではない
世界的に有名なピアニスト、ファズル・サイ氏は、高校の音楽のカリキュラムで自身の名前が挙げられなかったことに関してソーシャルメディアで発言した。ファズル・サイ氏は、ヒュッリイェト紙が7月21日に発表したカリキュラムに関する報道をソーシャルメディアのアカウントで共有し、メッセージを以下のように記した。「私に国民教育省のカリキュラムに私が出ないのかと質問する人々がおり、多くの仲間はこの状況に非常に残念に思っていると私のページに書いた。残念に思うことは何もない。カリキュラムは学校だけではない。カリキュラムは心の中にあるものだ。カリキュラムは母や父だ。あなたたちを自由な個人として社会に加えようと努めている人々だ。あなたたちに本や音楽を薦める見識ある仲間たちだ。周りの人々なのだ、人生や芸術に関するあらゆることを議論し、議論しながら学び、意識させ、間違えながら正しいことを学ぶのは。芸術家はカリキュラムを恐れない。カリキュラムがなんだというのか?芸術家は創造できないことを、生産できないことを恐れるのだ。」
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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:43041 )