7月15日のクーデタ計画の作戦本部であったアクンジュ基地に関する裁判で、とても興味深い事態が展開している。
アクンジュ基地のブラックボックスであるアクン・オズチュルクは、計画的にフルスィ・アカル参謀総長を狙っていた。
フルスィ・アカル参謀総長は、クーデタが始まったと報告したメフメト・ディシュリが「みな、あなたが委員会のトップになることを望んでいる」と話した時から、謀反人たちに敵対していた。
同様に、参謀総長が連れてこられたアクンジュ基地で、クーデタの中心メンバーであったオメル・ファルク・ハルマンジュクとクビライ・セルチュクが「内に平和を」委員会の通達への署名を求めたが、それも行わなかった。アカル参謀総長はその後、「私がそれにサインをしていたら全てが終わってしまっていた」と言おうとしていた。アクンジュ基地に設けられた演壇から生放送でクーデタの通告を読むという旨の提案も却下していた。
たしかに、私たちは、謀反人であるアクン・オズチュルクやメフメト・ディシュリの声明ではなく、クーデタに反対し民主主義の味方をしたフルスィ・アカル参謀総長の声明を信用するだろう。
上記の点と共に、クーデタ参画者らの精神を攪乱しようとしているにもかかわらず、アカル参謀総長はいくつかの点を明らかにする必要がある。
フルスィ・アカル参謀総長が銃を向けられて「撃てお前、恥知らず」と言い返したところのクーデタ参画者レヴェント・チュルッカンは、ある陳述をしている。メフメト・ディシュリが、アカル参謀総長にクーデタのトップになるよう提案して彼の側に行ったのち、外に出て「さらに」中に入れとアカル参謀総長は言った、と説明しているのだ。クーデタに反対していた参謀総長に関して、「さらに」というのはどういう意味なのか?
■アクン・オズチュルクの主張
最近の流行言葉でいうならば、人生の、いや、クーデタの夜の流れにそぐわないいくつかの点を明らかにする必要がある。
クーデタの夜、アクンジュ基地でアカル参謀総長の状況に関して、「決して彼に対する失礼な態度は見受けられなかった。彼が出す命令の全てにイエッサーと返事があった。みな、通常、司令官に対し振る舞うように、以前と同様にふるまっていた。彼は好きなときに電話で話すことも可能だった」というアクン・オズチュルクの言葉にあるように。
アカル参謀総長はそこで取り込まれてしまった参謀総長なのか、それとも、出す命令の全てにイエッサーと返事が来る司令官なのか?私は、アカル参謀総長を事態に巻き込むという罠であったと思っている。なぜなら、メフメト・ディシュリもアクン・オズチュルクも、フルスィ・アカル参謀総長が「内に平和を」委員会のメンバーらを説得するために自分たちを何度か送り込んだと証言しているからだ。言ったことがすべて実行される参謀総長が、どうしてこのようなことを必要だと感じるだろうか?
クーデタの夜、ビナリ・ユルドゥルム首相とエルドアン大統領をはじめとする閣議のメンバーらは、クーデタ計画の知らせを受けたとき、まずフルスィ・アカル参謀総長に連絡を取ろうとしていた。しかしアカル参謀総長の電話にはかからなかった。クーデタの精神に適った状況である。一方で、アクン・オズチュルクは違ったことを述べている。
「参謀総長は好きな相手と面会することができるのか?」という裁判長の質問に、「もちろんできる。まさにその通りだった。電話は彼の前にあり、彼が望めば電話に出ただろう。大統領に電話をかけろと彼が言えば、私もかけただろう」と述べている。
■ウミト・デュンダル任命の後
さらに、ウミト・デュンダルが6時45分に参謀総長代理に任命されたその後に関する出来事がある。ディシュリは、アカルが彼を介してクーデタ参画者たちに送ったメッセージを次のように説明している。
「彼らに伝えよ、この事態はもはや私のコントロール外であり、もはや私にできることはないだろうし、私たちはこの指導権すら失っている。彼らのもとに行きもう一度会え。トルコ国軍(TSK)がこの事態を私の命令で止めるのなら結果は変わる。警官が軍人に銃を抜いた報いではなく、これは悲劇である。彼らに許可を出させろ。私は、大統領と、首相と面会し、この事態を止めさせよう。私は大統領を、首相を説得する。これが最後のチャンスだ。」
さらに、アクン・オズチュルクの弁論がある。
アクン・オズチュルクは反対尋問において、「私も、実際にアカル参謀総長が首相や会議の参加者に『あなたたちは何を言うのか、行きなさい』と言い、私が彼を助けようとしていたということを述べたのを聞いた。証人はディシュリ少将だ、尋ねなさい」と述べた。
そして、説明を要する証言がまたひとつ。
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( 翻訳者:金戸 渉 )
( 記事ID:43199 )