新時代にジュムフリイェト紙は訴える
2018年07月10日付 Cumhuriyet 紙

トルコは先日より、長年採用していた議院内閣制から離脱し、新たな政治システムに移行した。正式な用語として、「大統領制」と呼ばれ、世界でも類を見ない新しいシステムである。これは、全ての国家権力が、一人の人間の支配、主導権に委ねられ、その人間が定める枠組みに沿って用いられることを意味している。社会は、選挙に参加し、有効な形で票を利用する人は、50%より1票多い票によって選ばれる人間にほとんどコントロールの効かない、統制されていない力の独占権を与えたのである。大変長い間施行されていた憲法にある国会議員の必要性と国会議員による統治は実際のところ一旦脇に置かれ、もはや政権に就く人々の言葉をもって憲法は一時停止状態となり、棚にあげられた。昨年行われた憲法改正の国民投票により現在の法的基盤とそれに伴って必要となることが実現された。最後に、2018年6月24日の選挙をもって新しいシステムへの移行が完全に行われた。この新しい時代に、国の立法-行政-司法の機能が権力分離の必要性に従っては働かないのではないかと見られている。この状況と新しい政治システムは民主的な社会になる途上でなされる努力という面で大きな弱点を作り上げるものである。国の全ての組織と機関、職能、職務、職員、そして権限はもはや一人の要求、選択、声が支配する、完全に統制された構造を構成するのである。

■新しい時代におけるジャーナリズムの未来

ジャーナリズムが自由を得ることができること、その自由を守ることができることが大変難しかった歴史的な時代で、ジュムフリイェト紙はこの点に関しては成功している。もちろんこの成功は簡単なものではなかった。その代償は自分達に大変高くついた、そして今も高く付いている。報道の自由、誰に対しても屈せず、誰に対しても従わず、真実に従い、公共の利益に適した報道をする代償として、国はあらゆる手段と道具を使ってこの新聞とこの新聞に携わる人々の息の根を無理やり止めようとした。なぜならジュムフリイェト紙は、世論がニュースや情報を得ることに関して、ジャーナリズムの原則を妥協せず押し通し、(ある意味において)悪い例を作っていたからだ。トルコにおける司法の現状は明らかである。司法の独立の原則はすでに死んでいる。
残念ながら、独立した司法組織も、独立と中立を保つために必要な信頼、能力、知識と経験を持ち合わせた人員にも、大変長い間恵まれていない社会に我々はいる。この状況に文句を言わない人はほとんどいない。民主的な社会のために司法の独立が不可欠な条件であるならば、報道のもしくはメディアの(政治的権力からの)独立も必須な条件である。

報道の独立性と自由の無い社会で、真実や事件を報道することはできない。逆に、報道で真実が作り出される;夢の物語を、あたかも現実かのようなニュースとして報道するのである。社会に、ただ政治的権力や、政権の欲する形と内容で情報を与えることができるのみである。そして表現と出版の自由の権利は、許された思想と信条の共有が可能となることでのみ成り立つ。批評は、せいぜい政治的権威が定める範囲と枠内で行うことができる。これを批評と呼べるものなら……。

このような社会は、疑いなく民主的な社会として認められない。ジュムフリイェト紙が多くの圧力、脅迫、禁制、制裁、陰謀、不正に対しても独立性とジャーナリズムの基本原則に妥協することなく出版と活動をつづけることができるのであれば、これは同時に、――自分がそう欲していなくとも――政治的権威にとってもチャンスである。ジュムフリイェト紙のような、片手で数えられるくらいしか残っていない新聞そしてメディアチャンネルがあることは、政治権力の視点から、どんなに価値のある、重要なものであるか気づくことができれば、これを良いスタートとして見る必要がある。しかし残念ながら、過去数年間に起きた出来事は、この点に関しては予想通りには行かず、どれほどひどく軽視されるかということのサインに満ちている。我々はジュムフリイェト紙として、我々の機会と可能性を使い果たし、我々の出版と活動の権利がなくなるまで、昔からそうであったように我々の基本価値と報道の原則に基づいて我々は我々の道を進んで行く。

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( 翻訳者:内山千尋 )
( 記事ID:45048 )