クルチダルオール襲撃事件について村人語る
2019年04月22日付 Cumhuriyet 紙
共和人民党党首ケマル・クルチダルオールは歩兵部隊の契約兵卒イェネル・クルクチュの葬儀で襲撃を受けた。その葬儀が行われた[アンカラ広域市のチュブク区]アククズル地区のハリル・キョクメン地区長は、クルチダルオールを殴打した人物は知っているが、グループの他のメンバーは知らないと述べた。キョクメン地区長は、「村を代表してケマル氏に謝罪をする。そして、これは挑発だと言いたい」と話した。村人のカヤ・キュチュクさんも、「クルチダルオールが受けたことは正しいことではない。 しかし、数人の挑発を行うものが現れて、私たちの村の名前を貶め、私たちも貶めることになった。あってはならないことだった」と述べた。
キョクメン地区長は、「共和人民党のケマル・クルチダルオール党首は、葬儀に参列し祈りをささげるところだった。その間に人々は罵倒や叫び声を上げ始めた。祈りは、人々の叫び声の中行われた。祈りの後に砲車ともにまず墓地に向かった。ケマル氏は、後ろからついてきていた。襲撃犯達は、クルチダルオールを罵りながら襲撃した。その間乱闘も起きた。クルチダルオールを殴打したのは私たちの村の者である、事件現場には他に5、6人がいた。彼らは私が知っている者ではない。この村の者ではない」と述べた。
■ケマル氏に謝罪する
共和人民党党首クルチダルオールがラヒム・ドルクの家に避難していたことに触れたキョクメン地区長は、「その後村人たちはそこに集まった。私は事件が起きた時に墓地にいた。村人が私に電話をしてきて墓地からやってきた。私たちは、人々が散会するように努めた。しかし、より多くの人々が集まってきた。そうしている間に防衛大臣フルスィ・アカルがやってきた。クルチダルオールは家の中で椅子に座っていた。何も問題はなかった。そして傷もなかった。非常に平常であった。村を代表してケマル氏に謝罪する。そしてこれが挑発行為であると言いたい。ケマル氏も『[こんなことは]起こりうる、悲しみから。でも私を怖じ気づかせることはできない。殉職者の葬儀には今後も参加する。人々とも会い話す』と語った。ケマル氏が家から出る前に私たちは変装のために『上着と帽子をどうぞ』と言ったが、彼はそれを受け入れなかった。『私はこのまま外に出る』と述べた。このようにして家から出ていった」と述べた。
■殉職者は私たちの村の者であるが、事件は私たちの村の物ではない
葬儀にはおよそ1万人が参加したと述べたハリル・キョクメン地区長は、「殉職者は私たちの村の者であるが、事件は村の物ではない。家族にとっては、彼は二人目の殉職者である。彼の母親の兄も1993年に殉職した。今回は2回目の殉職者の悲しみである。彼の家族は同時に私の親戚でもある。最初の知らせも私がした。今は何も考えられない。とても悲しい。彼女には2人の息子がいて一人が殉職した」と話した。
■殉職者のおじ:言葉がない
殉職者イェネル・クルクチュのおじズィヤ・クルクチュさんはというと、立っているのもやっという状態であったが、家族としてとても悲しいと述べた。クルクチュさんは、「殉職者の両親の健康状態は良くない。村で起こった事件についても言葉がない。実際、葬儀からつらい気持ちで戻ったので。何がなんだかわからない」と述べた。
■村人:これは挑発だ
村人の一人カヤ・キュチュクさんは、ケマル・クルチダルオールへの襲撃によって、このような形で村の名前が出ることは悲しいことであると述べた。事件が挑発である述べたキュチュクさんは、「クルチダルオールに対して行われたことは正しいことではない。しかし、挑発行為を行うものが現れ、私たちの村の名前を貶め、私たちを貶め、こうなってしまった。あってはならないことだった。私たちの悲しみは大きい、殉職者がいるのだから。私たちは今彼のことを気にかけている。絶対に彼らはこの村の者ではない。私たちの村ではこんなことは誰もしない。これは私たちの村で働くみじめな人々だ。村には凶暴な人間はいない。いるはずがない。しかしいた。殉職者遺族や家を見たでしょう。みなが悲しみに暮れている。この国には警察も検察も裁判官もいる。挑発であれば見つけるだろう」と述べた。
村人のヒルミ・チャクルギョズさんは事件の瞬間について話し、「事件はまさにあの瞬間、人々の感情が高まった瞬間に起きた。この事件は組織的なものではないと思う。瞬間的な火花、つまり、私たちの村にこの事件で全く落ち度はない。葬儀への参列者は多数あり、誰がどこから来たかわからない」 と述べた。
(註)本文中で人々が自分たちが住む場所を村と表現するのは、行政区改変の中で村が広域市に編入され「地区」となった後も、以前の村の意識を維持していることを示していると思われる。
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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:46673 )