UNESCO世界文化遺産リストに名を連ねるくクサントス遺跡のモザイク画が保護を一切されないままむき出しとなっていた。モザイク画は芸術的に無二の価値を誇り、以前の発掘調査隊が活動していた時期はジオテキスタイルで保護されていた。カバーは年々腐食していき、モザイク画がむき出しになった。保護がなくなりモザイクを構成する小石が周囲に散らばり始めた。表面の図画は日を重ねるうちに消えて行ってしまっている。
アンタルヤ県カシュ郡クヌク村近郊にあるクサントス遺跡は1988年にUNESCO世界文化遺産に登録された。1952年から2010年まで考古科学に基づく調査がフランス人のチームによって行われた。以降発掘はアクデニズ大学のブルハン・ヴァルクヴァンチ博士によって進められている。クサントスはリュキア最大の都市の一つであった。伝説によれば紀元前545年にペルシア人の統治下に入ることを拒み、全ての女性と子供が集められ、火にかけられた。そして男たちは最後の一兵まで戦い抜いた。その後、都市はローマの支配下になり、7世紀のアラブ人の襲撃後、放棄された。
保護が一切ない
無二の作品群で有名な古代遺跡は先日訪れたときには見るも無残な状態であった。アゴラ(市場)の床の見事なモザイク画の上を観光客が歩き回ったせいでテッセラ(モザイクを構成する細片)は飛び散り、モザイク画が消え去っていくさまを目の当たりにした。保護が一切なされていなかった。かつてフランスの考古学者達によってモザイクはジオテキスタイル(浸水しない、熱や寒さから対象を保護する素材)で覆われていたが観光客がその上を歩き回ったために摩耗し、ぼろぼろになり、モザイクは全くの無防備になってしまった。
飛散したテッセラを観光客が持って行ってしまう
砂利があふれている場所ではモザイクの破片と砂利が混じり、摩耗も伴ってモザイク画は消え始めている。モザイク画の上を立ち入ることを防ぐ安全テープや警告の看板もない。破片となってモザイクは一つ一つ消えていき、その周りにいる観光客がテッセラを集めて旅の思い出として鞄に入れて持って帰ってしまうということが報告されている。
元発掘隊隊長「カバーで保護している」
ボルドー大学元発掘隊隊長ジャック・デ・クウルティルス博士は2009年の発掘の最後の集会で優れたモザイク画についてこう話した。「都市の様々な箇所に点在する、そして迅速な対策を必要としているモザイク画の細片を保全するために研究がなされた。この研究ではモザイク画を保護するために表面を覆うことより、観光客が鑑賞できることを目的としていた。修復されたモザイク画は観光シーズンに展示され冬にはカバーがかけられている。」
迅速な対処が必須
こうしてそのカバーは約10年間のうちにその周りを防護する対策がなされずにぼろぼろになり、下のモザイク画がむき出しになり始めた。UNESCO世界文化遺産に登録されるほどの遺跡にそぐわないこの景観に対し、発掘隊や文化観光省による迅速な対策がなされなければならない。
180年前に剥ぎ取られた都市
クサントス遺跡は初めて1838年にチャールズ・フェロウズによって調査された。フェロウズが手に入れた全てのレリーフと彫刻の発掘物のうち重要なものはロンドンに送られた。この遺物は全て現在もロンドンの大英博物館のリュキア遺物のコーナーで展示されている。パヤヴァの棺やネレイドの記念碑、ハーピーの記念碑もロンドンに持ち込まれた最も有名な遺物である。一方でアンタルヤ美術館でもクサントスから運び込まれた多くの素晴らしいモザイク画が展示されている。
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( 翻訳者:市野太音 )
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