失地回復論者の感覚で現状を打破しようとしながら、そこで蓄積を見ないふりをして行われるあらゆる攻撃というのは、私たちを更に後退させてしまうだろう。
以前にもこのコラム、そしてほかのニュース媒体において何度も、私は文化的なヘゲモニーの問題に関する考察を執筆してきた。何度も似たトピックについて書いてみるということも時にはよいだろう。結論で書こうとしていることをここで言ってしまおう。トルコにおいて文化そして芸術分野において、あるヘゲモニーが存在するのだ。
まず、「私たち」の側が誤解している要素から言及してみるのがよいだろう。「文化的ヘゲモニー」という表現は問題の実際の次元をカーテンで覆い隠し、影を落としてしまう表現だ。本質的な問題は芸術分野における展開と関係がある、私は芸術といったが、ここではそれは文学、映画、造形芸術、舞台芸術だ。その一方で、「文化的ヘゲモニー」に関して述べられているように,メディアそれ自体は直接この問題と関係がない。また本質的な問題はさらに根深いものだ。この分野におけるアカデミックな仕事が真剣に行われる必要がある。ここでの調査の基本的なテーマはトルコが第一次世界大戦後に植民地とはならなかったにも関わらず、かりに植民地主義者たちが居続けたら行われたようなことが現実のものとなってしまっている,という点だろう。私の見立てでは、問題に正しい診断を下さなければ、処方を適用することも不可能だ。
私たちの日常からは逸脱してしまった文化と芸術を再び取り戻すことは不可能だ。もはやかつて私たちが使用していたアルファベットや古典芸術を受け入れることはできないのだ。今日、それらを私たちが受け入れようとしても、もはや何の意味も生まれない。様々な「伝統的な」もしくは「伝統」芸術が陥ってしまっている行き詰まりというものも実際のところはこれである。昔のことを再び繰り返すことは私たちに何ももたらさない。私たちのルーツと結びつきながらも、同時に現代においても訴えかける作品が提示されなければならない。失地回復論者の感情をもって現状を打破しようとして、その蓄積に目を向けることなくやってきて、行われるあらゆる種類の攻撃というのは私たちを更に後退させてしまうことだろう。
実例を挙げればこのことは更に理解が進むだろう。特定のイデオロギーを持つグループが主催し、それ以外の他者を存在しないものとみなすチュヤプ(TÜYAP)・ブックフェアを例にとってみよう。このフェアを中止しようと働きかけることや、数々のイベントを規制しようと試みることは誰にも何ももたらしはしない。この代わりに行われなければならないのは、もしもこの状況に不満をもつ人間がいるのならば、彼らが集って自分たちの考えと希望に見合うほかのフェアを開催するということだ。まさにCNRエキスポ・コンベンションセンターで開催されたブックフェアは、見て取ることができた限りではこの不満の産物として登場したものだった。これは、ただの一例に過ぎない。これと類似する更に多くの事件がある。しかし、それら全てに「オルタナティブ」が用意されたとは私には思えない。イェディテペ・ビエンナーレが一体、何と相対する催しだったのか、またこの先にそうなるのか、もしもこれが継続するのであれば私たちはこの先に更にはっきりと理解することになるだろう。最後に、高圧的な態度で「やあ皆さん!これを芸術というのです」という形のアプローチは社会に何かをもたらしたり、またそれが持続性があるものだとも私には思えない。
■君の道が開かれていますようにオスマン!
オスマン・ドアンは25歳の気鋭の映画監督だ。初監督作品『鳩の盗人』のワールド・プレミアをサラエヴォ国際映画祭で敢行しフェスティバルのメイン・コンペにも参加する予定だ。さらにヴェネツィア映画祭の結果も待たれるところである。第三十七回イスタンブル国際映画祭の『橋渡し部門(訳注:トルコとその隣国の映画製作者、監督、シナリオライターたちのため、長編映画プロジェクトとポストプロダクション段階の映画作品の最初の国際的なプレゼンの機会と彼らの間での共同制作のチャンスを提供することを目的としている)』において争って配給の保証と配給の際にプロモーションの援助を行うバシカ・シネマ賞を獲得した。いまだ第一作ながら、かなりの話題を集めることになるであろうオスマン・ドアンの道が開けたものであることをここで願いたい。トルコ映画界は新たな才能を獲得した。文化・芸術的なヘゲモニーを理解するためにドアン監督のサラエヴォ映画祭で争うことに関するニュースがどのルートから出るのか、もしくは出なかったのかということを検証することは非常に有意義なことだろう。
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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
( 記事ID:46986 )