第二次インティファーダから20年…どのようにしてイスラエルはパレスチナ人とその土地を完全に手に入れたのか?
2020年09月29日付 al-Quds al-Arabi 紙
■第二次インティファーダから20年…パレスチナ人とその地にどのようにしてイスラエルの勝利が完全な形で現れたのか?
【n.p.:本紙】
第二次インティファーダは、イスラエルが略奪や入植の計画を推し進めるためにパレスチナ人との交渉をうまく利用したことが原因で勃発した。偽りは空に向かって悲鳴を上げていた。:一方では平和についての議論が、他方ではユダヤ人の利益と安息のためのパレスチナの地の継続的な支配が。偽りは悲鳴を上げていたが、イスラエル人たちは耳を傾けようとしなかった。
オスロ合意以降、長年にわたる失敗と目覚めの上に積み上げられたイスラエルの裏切りに対する怒りや嫌悪は、2000年9月29日、当時のエフード・バラック首相の承認を得て(リクードの)アリエル・シャロン党首が挑発を行った翌日に爆発した。しかし、第二次インティファーダは厳密な意味ではインティファーダではなかった。つまり1987年の(第一次)インティファーダとは違って、民衆や文民の役割は最初だけだった。民衆の多くはインティファーダに参加していなかった。インティファーダの民衆的‐社会的基礎は、パレスチナ人たちがどれだけ抑圧や妨害、懲罰や経済的消耗といった局面に耐えてきたかの表れである。
イスラエル軍、国境警備隊および警察は初日から圧倒的な武力でデモ隊を押さえつけ、激怒したインティファーダの参加者たちを追い払うことに成功した。ヤーセル・アラファート議長とその側近らは、パレスチナ当局やファタハに対する批判を恐れた。それで、ファタハのメンバーと治安当局にイスラエル軍との衝突点における兵器使用のゴーサインを出した。こうして、彼らは抵抗の名目で何度もデモ隊を取り締まった。(アラファートたちは)武装蜂起が交渉におけるパレスチナの立場を強くすると確信し、(自分たちこそが)イスラエルによる1967年の軍事占領地の併合を阻止することができると信じ続けた。
(後略)
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( 翻訳者:原実都姫 )
( 記事ID:49969 )