HDPデミルタシュらに、38重加算終身刑求刑―コバーニー事件
2021年01月07日付 Milliyet 紙
最新情報によると、世間で「コバーニー事件」として知られ、2014年10月6日から8日にかけて全国で起こった一連の事件に関係して、人民の民主主義党(HDP)の共同党首であったセラハッティン・デミルタシュとフィゲン・ユクセキダーを含む27人が逮捕され、108人を被告とした起訴状が、アンカラ第22重罪裁判所によって受理された。すべての被告人を合わせると、29件の罪により、38の終身刑と19680年の禁固刑が求刑され、審議が行われる。
2014年10月6日から8日にかけて、いわゆるクルディスタン労働者党(PKK)テロ組織の指導者らと人民の民主主義党(HDP)の中央執行委員会メンバー及び共同党首から、ソーシャルメディアアカウントや党に近いいくつかの報道機関を通して、シリア北部のコバーニーで起きた事件に対するデモ行進への参加が呼びかけられた。呼びかけの後、東部及び南東部の各県を始めとする35県96郡131の住宅地で事件が起きた。事件は3日間続き、ライフル、火炎瓶、狼煙、石と棒を用いて公共の建物、公共交通機関、数多の住居や事務所、車が襲われた。事件で数多くの市民と警備員が負傷し、37人の命が失われた。
■取り調べの一環として改めて逮捕された
アンカラ共和国主席検察局は、アンカラ第19重罪裁判所で、「テロ組織の指導者」と「テロ組織の構成員」である罪が問われた訴訟で釈放の判決が出ていた元HDP共同党首のセラハッティン・デミルタシュ被告とフィゲン・ユクセキダー被告に対し、コバーニー事件に関する取り調べを開始した。
デミルタシュ被告とユクセキダー被告は、拘留されていた刑務所から、音声・映像情報システム(SEGBİS)によって弁護したが、簡易刑事裁判所によって2019年9月に再逮捕された。
その後行われた捜査で、カルス市のアイハン・ビルゲン市長、元HDP上院議員のスッル・スュレイヤ・オンデル、エミネ・アイナ、アイラ・アカト・アカ、ナズミ・ギョル、ベイザ・ウストゥン、党中央執行委員会メンバーのアルプ・アルトゥノルス、アルタン・タン、ギュルフェル・カヤ、アリ・ウルキュトも含む多くの人物が拘束された。
このうち、スッル・スュレイヤ・オンデルとアルタン・タンは、簡易刑事裁判所によって保釈されたが、その他の被疑者らは勾留された。その後の取り調べの結果、108人の被疑者のうち27人が逮捕され、6人は釈放された。テロ組織のいわゆる指導者と呼ばれる者たちも含む逃亡中の被疑者75名に関しては、逮捕令状が出された。
■起訴状が受理された
108人に関してアンカラ共和国主席検察局によって作成された起訴状が、アンカラ第22重罪裁判所に受理された。起訴状には、108人の被告に対して、「国家の一体性と統一性の毀損」、「殺人」、「殺人の扇動」、「略奪」、「妨害行為」、「妨害行為の扇動」、「器物破損」、「器物への放火」、「公共器物の破損」、「公共器物への放火」、「事業所への侵入」、「事業所への夜間侵入」、「夜間に室外に置かれた物品の窃盗」、「室外に置かれた物品の窃盗」、「窃盗」、「夜間の窃盗」、「身体への傷害」、「身体への武器による傷害」、「公務員の身体への武器による傷害」、「公務員の身体への武器による故意の傷害」、「骨折に至らしめる武器による故意の傷害」、「公務員の身体を骨折に至らしめる武器による故意の傷害」、「武器による故意の傷害」、「公務員への武器による故意の傷害」、「職業と労働の自由の侵害」、「礼拝所の毀損」、「流産の原因となる行為」、「国旗焼却」、「法律第5816への違反」、「犯罪の教唆」の罪が記載された。被告らに向けられたこれらの罪状によって、38の終身刑と19680年の禁固刑が求刑された。
■事件を計画し拡散した罪
起訴状には37人の死亡者と2676人の被害者の名前が記載された。
また、セラハッティン・デミルタシュ、フィゲン・ユクセキダー、アイハン・ビルゲン、スッル・スュレイヤ・オンデル、アイラ・アカト・アタ、ギュルタン・クシャナク、セバハト・トゥンジェル、エミネ・アイナと、逃亡者のムラト・カラユラン、ジェミル・バユク、サブリ・オク、サーリフ・ミュスリュム、ズュベイル・アイダル、エルトゥールル・キュルクチュ、メフメト・ハティプ・ディジレも含む108人の被告人が挙げられた。
被告ら全員が、発生した一連の事件の発端及び継続に関与、計画したことに加え、組織の指示を受け路上での暴力行為を国全体に広げ、テロ事件を広範囲に拡大させたことが咎められた。組織の指導者であることで告訴された被告らはそれぞれ個々の罪に問われた。
108人の被告の審議は、第22アンカラ重罪裁判所で行われる。
■コバーニー事件起訴状には、ヤスィン・ボリュさんの父フィクリ・ボリュ氏の供述も
コバーニーでの事件に端を発して2014年10月6日から8日にかけて実行された事件に関してHDPの共同党首であったセラハッティン・デミルタシュ氏を含む108人の被告に対し、アンカラ共和国主席検察局によって用意された起訴状には、事件で殺害されたヤスィン・ボルさんの父親フィクリ・ボル氏の供述も記載された。
父親のフィクリ・ボル氏は、アンカラ最高検事局によって用意された起訴状に告訴人として名が挙げられた。
ボル氏は、10月6日から8日の事件で失命したヤスィン・ボルさんが自身の長男であり、息子は事件当時ガッファル・オカン・アナドル高校の3年生として学生生活を送っていたと話した。
息子ヤスィンさんが10月7日に「外にとても貧しい人々がいる。その人たちに犠牲祭の肉を配らないといけない。午後に犠牲祭の肉を配りに行くよ」と言っていたとして、自身も犠牲祭を祝って親戚や隣人を訪ねたこと、帰ってきたときに息子が家にいなかったこと、そのため息子を探したが見つけられなかったことを述べた。
■「息子の顔は認識できない状態だった」
フィクリ・ボル氏は、息子ヤシンさんはどこかにいると思ったと話した上で、以下のように説明した。
「10月8日の朝、何の連絡もないので私と親戚はヤスィンを探し始めた。電話には依然として出なかった。正午まで探したが連絡はなかった。その後拘束されたのかもしれないと考え、警察本部と交番をあたったが、情報は得られなかった。夜まで探しても全く手掛かりはなかった。10月9日に最後の可能性にすがり、ディジレ大学病院に行き、もしかしたら何らかの手がかりを得られるかもしれないと思っていた。初めは何の情報も得られなかった。そこにいた人たちは私に、『遺体安置所にいるかもしれない。数人の遺体は身元が特定できていないから』と言った。私が病院の遺体安置所に行くと、そこの職員らが私に、1人若者の遺体があるから見てみるように言った。判断するために遺体安置所に入ると私の子供の顔は認識できない状態だった。子供の着ていた服と左足の黒子から息子だとわかった。もうその状況に耐えられなくなり、そこで気絶した。その後、近しい親戚たちに連絡した。
近隣住民から聞いたところによると息子ヤスィンがバーラル郡のジェンギズレル通りで犠牲祭の肉を配っているところに事件が起きたそうだ。そこにいた大勢の組織の集団は、息子と彼の友人らを「イスラム国の支持者」だとして暴行したらしい。その後息子と彼の友人らはここから走ってあるアパートに逃げ込んだ。ここでも息子と友人たちをまた捕まえて残忍で残忍な方法で殺害した。」
■「私は息子を死に至らしめた者たちを訴える」
暴行した者たちは組織の支持者であると話すフィクリ・ボル氏はこう語った。
「この事件をここまで大きなものにしたのは、新聞、メディアを通して説明し、人々を扇動したセラハッティン・デミルタシュ、ズュベイデ・ズュムリュト、ギュルタン・クシャナクとその他大勢の人々だ。息子を死に至らしめた者たちに呼びかけ、通りに集め、事件を引き起こし、扇動したのは、今名前を挙げた者たちだ。」
ボル氏は、自身が息子を死に至らしめた人々を訴え、誰とも和解するつもりはないということに加え、息子の電話が現在も行方不明で、この電話が息子を殺害した人物の元にある可能性があると述べた。
息子の物である携帯電話が見つかって欲しいと話すボル氏は、「息子の電話が誰かの元にあるのなら、殺害した人物の元だ」と陳述した。
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( 翻訳者:佐藤くるみ )
( 記事ID:50417 )