最新の情報によると、その死がトルコでも大きな悲しみを生んだ偉大な音楽家が祖国に埋葬された。ハ二ヤで行われた葬式では伝統衣装を身につけた人々が目を引いた。
ギリシャ人で、チェシュメ・ウルラ氏を母に持つ音楽家ミキス・テオドラキスさんが本日故郷のクレタ島で告別されている。クレタ島のハ二ヤで執り行われた葬儀には何百人もの人が参列した。観光客らは携帯電話でその光景を撮ろうと揉み合っていた。
ギリシャメディアは、アサンプション大聖堂前に大勢の人々が集結し、教会の生徒たちがミキス・デオドラキスさんの歌を歌う姿を伝えた。カスメリニ紙は、故人の村であるガラタス村から葬儀に参加したゲオルゲ氏が「早朝からミキスに、私たちのミキスに別れを告げるために待っています」と発言したと伝えた。
葬儀で最も目立ったのは、クレタの伝統衣装を身にまとった人々だった。
ギリシャの首都アテネで昨日行われた葬儀には多くの人々が参列し、著名な音楽家に別れを告げた。96歳でこの世を去ったミキス・テオドラキスさんのためにギリシャで3日間喪に服すと伝達された。
その死がトルコでも大きな悲しみを生んだ音楽家は、1960年代で映画『ゾルバ』の音楽で世界的に有名になった。1925年にヒオス(サクズ)島で生まれたテオドラキスさんは、アテネとパリでクラシック音楽の作曲を学んだ。オペラや交響曲から大衆音楽に至るまで様々な音楽を作ったテオドラキスさんが1964年に『ゾルバの踊り』のために作曲したダンスミュージックは、世界中でギリシャ音楽と言えば最初に思い浮かべられる曲になった。
テオドラキスさんの曲は、ビートルズ、シャーリー・バッシー、エディット・ピアフなど数多くの著名なアーティストに演奏された。1969年にオリジナル映画音楽部門で英国アカデミー賞を受賞した『Z』の他、『ファエドラ』、『セルピコ』といった映画に使用された楽曲も受賞にふさわしいとされた。
テオドラキスさんは、ギリシャが第二次世界大戦期にナチスにより支配された状況下でギリシャの武装抵抗勢力に加わった。第二次世界大戦に続く数年のギリシャ内戦期、クーデター政権支配期に左派であったことから逮捕され、拷問を受けた。その後亡命を余儀なくされたテオドラキスさんの音楽は、クーデター政権から禁止された。テオドラキス氏はこの時期ギリシャにおける人権侵害を全世界に知らせる啓蒙活動に立った。
テオドラキスさんは長年ギリシャ共産党のメンバーであり、1981年から1990年まで国会議員を務めた。しかし、1989年無所属候補として右派の新民主党から立候補し、1990年にコンスタンティン・ミチョタキス(キルヤコス・ミチョタキス大統領の父)内閣の大臣として従事し、1992年辞職した。
近年は健康に問題を抱えており、2019年に心臓手術を受けていた。
■母がイズミル出身であることを誇りに
ステルヨ・ベルベラキス氏は、「ギリシャの近代史に足跡を残した巨木」と表現したミキス・テオドラキスさんについてトルコBBCに追悼文を寄せた。
「ミキス・テオドラキスは、母がイズミル出身、父がクレタ島出身であるのを誇りに思っていた。彼は音楽文化の中でアナトリア、ビザンツの調べが大きな役割を担ったとしばしば話していた。
■パレスチナ国歌を作曲
テオドラキスさんの人生は、激動の、多くの出来事に見舞われたものであり、筆舌に尽くしがたい。誰もが、『ギリシャのベートーヴェン』『ギリシャのモーツァルト』のように彼を説明するとしても、テオドラキス氏独自のスタイルと政治観があった。「テオドラキスの音楽」は、歴史となった。
映画『ゾルバ』の音楽によって人々を興奮させることに成功したテオドラキスさんは、オペラ、民衆歌、パレスチナ国歌から抵抗歌に及ぶ幅広い音楽・政治活動を行っており、一口に彼の活動を定義することは困難である。
■彼の歌はクーデター政権を根本から揺るがした
テオドラキスさんは、青年期にナチスドイツに対する抵抗運動に参加し、その後勃発した2度の内戦で共産主義勢力にあってアテネ周辺を担当するゲリラの軍務を務め、1967年から1974年の間のギリシャ人将校たちの革命政権に抵抗し、牢獄と拷問を経験した。激動の人生の中で常に音楽への情熱を楽譜に注ぎ込み続け、何百万人もの人に影響を与えた。
パリに亡命した数年間で作曲した抵抗歌が全世界で反響を生んだことは、ギリシャのクーデター政権を根本から揺るがすほどの影響力となった。
■トルコ・ギリシャ間友好関係の創立者たちから
テオドラキスさんは、トルコ・ギリシャ関係が最悪の時代に、トルコ民衆との接近を図る勇気を持つ最初の人だった。彼は80年代にトルコ・ギリシャ友好協会の設立に取り組んだ。トルコとギリシャに住む普通の人々が一堂に会し、お互いを知ることを夢見たテオドラキスさんの目的は、このように政治関係に影響した。
トルコで伝説的なコンサートを行ったテオドラキスさんのアテネにある家を訪問した指導者たちの中にはレジェプ・タイイプ・エルドアン大統領やフランスのフランソワ・ミッテラン大統領といった面々がいた。
左派であったにもかかわらず右派の人々からも尊敬を集めていたテオドラキスさんが80年代に所属し国会議員となったギリシャ共産党(KKE)から離れ、1989年に結成された保守の新民主党政権(が彼に提案した)文化大臣の地位を受け入れたことには、多くの反発は示されなかった。
テオドラキスさんは最後の数年間を自宅で過ごした。長いこと本人の発言がなく、彼の動向に関心を寄せる人たちは悲しい最期が近づいていると予測していた。テオドラキスさんは、回想録、作品、何百人もの人々がインスピレーションを受けた曲、彼の生涯の様々に時期に及ぶ行動によって、近代ギリシャ政治史に足跡を残す最後の巨木となった。」
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( 翻訳者:小鉄礼子 )
( 記事ID:51555 )