2021年ノーベル文学賞を受賞したアブドゥルラザク・グルナ氏は、その各小説において、中心に据えた難民の時代そしてその後の崩壊を個人的に目撃し、そして生きた最も重要なアフリカ人作家の一人である。スウェーデン・アカデミーから行われた発表によればまた、
「:植民地主義のもたらした影響と、異なる文化と大陸の狭間に置かれた難民が辿った運命への、妥協のない、情熱の込もった洞察に対して、確かでかつ慈愛のこもった形で洞察をおこなった」ために受賞をしたと発表がされたグルナ氏は9作の小説、かなりの数の短編そして論文がある。
写真:ロイター
2021年のノーベル文学賞受賞者であるアブドゥッルラザク・グルナ氏は、ザンジバル生まれだ(1948年生まれ)。1968年から現在までイギリスで暮らしている。長年に渡り文学者そしてまた学者の肩書によってコロニアリズムの後の仕事分野において、重要な作品を生み出して、生きた最も重要なアフリカ人作家の一人である。
ノーベル委員会が受賞に関しての発表で明らかにしたように、グルナ氏が、その小説において「単純化されることなく、クリシェの表現から逃れて、真実に結びつき、そしてキャラクターたちの二つの文化、二つの人生の間における物語を矮小化した対比の中にではなく、他者性、多様性へと道を開きながら、完璧な語り手とともに提示をした」というのは、疑いの余地なく、普遍的な作家として評価されることを、そしてまたコロニアリズム以降の時代の文学に対しておこなった貢献がさらに広い読者層に迎えられたことを可能とし、この賞を受賞したことにおいて重要な要素である。
■最初の小説は1987年の出版された
グルナ氏は、その小説において中心に据えたコロニアリズム時代そしてその後の崩壊を個人的に知っている作家である。
ザンジバルが1963年にイギリス領になり、独立を迎えたのちに、1964年初めにその国の最初の大統領となったアベイド・カルメ氏のクーデターによって、その時にはいまだに6か月間在位にあったスルタンそして主にはアラブ勢力からなる(シンボル的な)政府に終止符が打たれたのだ。
そしてその時に、アフリカ人でない全ての人に対して、とりわけにはまたヨーロッパ人そして南アジアの人間に対してのパートから始まっている。その時期に、国から逃れた人々の間にアブドゥッラー・グルナ氏もいたのである。1968年にイギリスに暮らしたグルナ氏は、2017年に引退をするまでにケント大学においてコロニアリズム以降の文学に関して講義を行っている。
最初の小説である『メモリー・オブ・デパーチャー』は1987年に出版がされて、これに9作の小説、数多くの短編物語さらには論文が続いている。
■アイデンティティ、帰属、記憶、難民・・・
2021年にノーベル文学賞を受賞したアブドゥッラザク・グルナ氏の著作にはアイデンティティ、帰属、記憶そして移民の問題があり、「人間は果たして過去を本当に後に残してしまえるのだろうか?」という質問を内包させているようなのである。
小説内の語り手たちは、たいていの場合にその故郷から、ザンジバルから離れえて、イギリスへと移住をしている。そこで生活をしているのであるが、やってきた場所はといえば、いまだにその脳裏にはっきりと息づいているのだ。まさにグルナ氏もまた20歳になる前に国を逃れたのにも関わらず、ザンジバルは常にそのイメージの中にある活発さとともに継続させているのだ。
東アフリカ海岸のせわしない経済生活を、また日々の生活を、学生たち、そして家政婦たちを、商店街の職人隊を、日々の品々をその豊かな詳細さとともに描写をしているのだ。
あるルポタージュにおいては、「ある場所について書くために、あなたがその場に居続ける必要はありません。その場所は実際のところ、あなたをあなたたらしめている全てのものの中に含まれているのです。」(ザ・ニューヨーク・タイムス、2021年10月7日)と述べながら、また同じルポタージュでは、執筆を始めたときの原動力が、「世界において居場所を失うことについての考え」であると述べている。
■痛みを伴う疎外感!
グルナ氏は、登場人物たちにおいてコロニアリズムが国にもたらした崩壊の問題のために自身の人生の亡命者であるかのように、自身の過去から追い出されたかのように感じているような疎外の状況も問題である。
彼は訪れた国でもまた「疎外された存在」なのだ。この隘路から彼らを救い出すものは、彼が愛をもってつながった人々の
-アジア人、アフリカ人、ヨーロッパ人のようなエスニックのアイデンティティとの結びつき―提示することのできた人間らしさ、そしてストーリーテリングであるということができる。
グルナ氏は、小説においてはスポットを当てた問題に関連して多様な視点をもたらしながら、同じ問題を異なるキャラクターたちのパースペクティブから提示をして、この間に元の計画で保っていた他のテーマ(例えば物語の語り手、言語)と、そこにおける問題(登場人物が難民である/もしくは自身の故郷でおこっている)ことの間でのダイナミックな関係性を作り出しているのだ。
■アッバスの物語・・・
小説はこのシーンとともに始まる。アッバスは、いくつかのことについて説明することをとても伸ばしてしまったと語る。もう既に説明するときは来たのだが、今回もまた麻痺に見舞われてしまったために会話の能力を失ってしまうのだ。最後にはいくらかよくなり、再び話をし始めたときには、とても時間がかかってしまったひどい沈黙を打ち破る。そして物語を語り始めるのだ。
もう一度、麻痺がおこってしまうと、すでに死がかなり近づいているのにも関わらず子供たちに対して最後のプレゼントとして録音した音声を残す。そして録音機はある語り手へと戻る。
■語り手たちは躊躇いの中にいる!
彼の語り手たちというのは、たいていの場合には困難な状況の中にある、そしてその声が聞かれることを、物語に対して耳が貸されることを望んでいる。
これは、時には遅れてしまった告白を言語化すること、ときには人生の道を変えることになるトラウマチックなある事件の重荷から解放される希望に基づいている。しかしながら物語ることに躊躇をしてしまい、沈黙を貫く、もしくは告白の時間がくるまでは他の物語を「紡ぎだし」て本当の問題を覆い隠すのだ。
キャラクターたちの沈黙、もしくは「作り上げた」物語の数々は、一般的に、自身に関連して希望をしたよりもさらに多くのものを明らかにすることができるという繊細な状況と関係がある。自身をすべてのこととともに明らかにした際に認めることができないだろうという考えの中にあるのだ。
この沈黙そして物語ることを引き延ばす問題は、『最後の贈り物』そして『沈黙を称えて』においては、明らかな機能を有している。
■『沈黙を称えて』
『沈黙を称えて』(ミュゲ・ギュナイ氏翻訳/イレティシム出版)は、名前を持たない語り手の生活の物語を語り手ごとに、人物やいくつかの部分を隠しながらもしくは変えながら物語っている。
小説のオープニングでは、イギリスでエマと共に生活しているところであり、アメリアという名前の少女がいる。ザンジバルにいる家族はこのことを知ることはなく、短い手紙によって続けた通信で、ある段階で家族は、彼のことをもう結婚させたいと書く。語り手もまた、状況をはっきりとさせるために、ザンジバルで家族に会いに向かう。
実際のところ、語り手の父親、は母親が彼のことを妊娠していた時に逃亡をしてしまっており、そしてもう再び戻ることはなかったのだという。しかしながら、エマに対しては、このことについて語ることはない。この代わりに物語を、 「できる限り複雑に見えないように装飾をして、実際にはない詳細を紡ぎだした」と述べている。
疑いの余地なく、この嘘というのは両方との(ザンジバルにいる母親そしてイギリスにいるエマ)調和をもたらそうとする努力を示しているのだ。
そして物語の語り手は、どれほど生活に関していくつかのことを紡ぎだしたとしても物語を、その他の数多くの語り手の方法ととともに(例えば父親の最後に関連して間をあけながら対話を続けた母親そして継父との会話において)異なる観点から見るという機会があるのだ。
■人種差別を内化している!
語り手たちが再び認められるために紡ぎだしていることにおいて、また一つ別のことというのは、エマが母親そして父親とともに一堂に会して、彼らを満足させるという目的と共に脳裏にあるアフリカ人の振る舞いに適したことを言うという場面を私たちは目にする。
「彼らに対しては、私の父の家では全てのベッドが黄金でつくられたということ、更には16歳になるまでは毎朝男性の召使が私のことをミルクで洗い、そのあとにはココナッツミルクで濯いだと語りました。」
物語の語り手は、大英帝国が栄華を誇った時期に関連して物語を聞くことが大好きなこの人々と一緒にある中で、頻繁にコロニアリズム時期を褒めたたえる義務を感じる。
しかしながら目の前にいる人たちというのは、「人種差別を完全に内化してしまったため」語り手の会話におけるアイロニーを、ユーモアのトーンを理解することがない。(カイガイ,ナイロビ大学, 2017):
「大英帝国の奉仕において仕事をしていた人たちの精神そして犠牲というのは、大げさなものであり、そしてまたありふれていたものだった。つまりは何をするのか明らかではない外国人の一人であったとしても、彼らによって私たちは植民地化されたのだった。」
小説においては、沈黙というのはキャラクターたち自身の装飾に役に立つ方向において用いられていて、また暴力的な専制において広い形で見受けられた、抑制、沈黙の強要、声を消すという形で私たちの前に現れるのだ。
■難民統治時代ののちの混乱期・・・
グルナ氏は、難民たちが国にもたらした崩壊と同じ位、ザンジバルでもコロニアリズムののちにその時期に自身を新たに作り上げる奴隷と家主の弁証法を、昔から犠牲となっている
小説は以下のようなエピグラフから始まっている:「それは、この島における沈黙への慣れだ。巨大な耳のように、長く長く、沈黙を考えているのだ。彼に対して、毎日情報を与える諜報者が存在している。話す以前に覆い隠してしまうことを望んでいるのだ。」
大英帝国は、ザンジバルからは1964年に撤退したのちにシンボル的なスルタンを王位から引き下ろした際に発生した内戦について語る際には以下のように語っている。
「そしてまた他の旗に慣れることを私たちは学ぶ必要がありました。この旗の中には、一つの斧があった。斧の暴力とともに恐れさせて、そして私たちのことを同化させようとさせたのです。」
この混乱の時期を、グルナ氏の小説の歴史的な背景で私たちは頻繁に対峙する。
■「最後の贈り物」
最後のプレゼントは(翻訳:ミュゲ・ギュナイ氏/ イレティシム出版)の主人公であるアッバス氏もまたその沈黙とともに前面に出ているキャラクターの一人である。何年も前にザンジバルにて妻を、妊娠しているときに放置してイギリスにやってきたのだ。彼もまた現在の妻であるメイレムと結婚をしたのである。
メイレムから、子供たちはジェマルそしてハンナからザンジバルにおける結婚のことについては隠している。ザンジバルからは誰にも知らせることなく、逃げてイギリスへとやってきたために罪の意識を感じるというのは、
■「海辺で・・・・ただの難民;サーリフ・オメル」
グルナ氏の執筆スタイルにおいて沈黙というのは一つの物語方法である。まるでキャラクターたちが自身の表現スタイルに対して戻るそのほかの次元というのもまた『海辺で』(翻訳:ミュゲ・ギュナイ/イレティシム出版社)の小説において目にしている。
サーリフ・オメル氏は、英語を知っていることを隠しながらイギリスへの保護申請へと申し込みをするが、当然のことながら空港では入国審査官に困りごとを長く説明することはなく、ただ「難民です」と伝えて、パスポートを手渡す。
メルヴィルの「バートルビー」のキャラクターの、あの有名な「話さずにすめばありがたいです」というセリフ的な表現をする、保護統治時代に対してある種の受動的な抵抗が沈黙によって表現されているのである、この「だんまり」というのは。
しかしながら、これもまた長いこと続くことはない、難民センターのレイチェルの助けとともにサーリフ・オメルは新たな社会アイデンティティを獲得する。
小説のその他の語り手であるラティーフとともにサーリフ・オメルのその道は何年も前にザンジバルにおいてある遺産の問題のために交錯をしていて、現在イギリスで再び出会うと復讐の問題へと入り込む。
この復讐に対して自身の中で、また 遺産問題においてトピックにあがった問題についてザンジバルの社会構造そして文化要素を物語る。
■『脱走』、『天国』、『砂の心』
『脱走』において(翻訳:ミュゲ・ギュナイ/イレティシム出版社)では南アフリカの沿岸の社会的な生活を、言語の多様性を、コスモポリタンな構造を、宗教、そして伝統の抑圧的な特徴の家族そして愛の関係について、物語っているのを私たちは目にする。
マーティン・ピースとレハナがその関係が終わってしまった理由となったある出来事は、50年の月日がたったのちに、レハナ氏の孫であるジェミールとアミンの諸関係が終わることにおいてもはっきりとした役割を演じている。テクスト間の引用という意味においてもグルナ氏の作品は豊饒である。
シェイクスピアの『尺には尺を』との関係を築いているのが見受けられる。一般的に各小説においては千夜一夜物語のランプから出てくる妖精たち、『アリババと40人の盗賊』の王杯、シンドバットのような人物たちの文章感覚へと操られながら、自然な形で私たちの前に立ち現れるのだ。
■帰属意識を持つ唯一の場所が作家業!
アブドゥラザク・グルナ氏の小説は、テーマの観点から複数性を持つ構造を、つまりは搾取するー搾取される諸関係を取り上げていると
生み出しているキャラクターたちというのは、バルシュ・オズクル氏が述べるように『犠牲者ではなく、誇りを持った人間だ』(ビルキム誌、アブドゥッラザク・グルナ:ポスト-コロニアル文学の壊れた鏡)
この二層的な構造の中に捕らえられてしまったようなのであり、それを新たに生み出しては、出口のない怒りとともに世界を見るのである。グルナ氏は、正義、アイデンティティ、そして疎外性のような非常に多層的な問題を取り上げる中で、これらのアイロニーを含み、様々な方向へと提示をしている。恐らくは、本当の意味で帰属を感じている「場所」というのは、作家業なのだ。
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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
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