イスタンブル都市史:イスタンブルからジョン・フリーリー氏が消える・・・ある歴史家の生涯
2017年05月20日付 Hurriyet 紙
4月に死去した物理学者、歴史小説家そして旅行家であるジョン・フリーリー氏(91歳)は、個人の遺言により5月11日に彼が愛してやまなかったイスタンブルで、フェリキョイ・プロテスタント墓地に埋葬された。フリーリー氏は、イスタンブルに惚れ込んでいた。1960年にロバート・コレジで教育を行うため常に夢を見ていた都市、イスタンブルにやってきた。妻のドロレス、そして3人の子供モーリン、エイリーン、そしてブレンダンと共にボスフォラスで16年間を過ごした。40冊にも及ぶ書籍の大半はオスマン帝国史、トルコそして最も多かったのはイスタンブルについてのものであった・・・フリーリー氏はイスタンブルに印を刻んだ多才な人物だった…。
彼については、エクシ・ソズリュクの書き手が「エヴリィヤ・チェレビの足跡を追った男だ」、また他の言い方では、「その後に巨大な全集を残して私たちのもとを去った価値ある作家」として紹介されている。全てのページをこのような紹介とともに満たすことが可能だ。なぜならば、4月20日に私たちが失ってしまった物理学者、歴史家、そして旅行家であるジョン・フリーリー氏というのは実に様々な側面を有していたルネッサンスの人間だったからだー例えばレオナルド・ダ・ヴィンチのように科学から芸術へ、文学から数学に至るまでありとあらゆるテーマに関心を有していて、それの調査をおこない、そして発見したものを多彩な手法で書籍の中に注ぎ込んだ。
例えば、英語の『インサイド・ザ・セラグリオ:プライベート・ライヴス・オブ・ザ・スルタンズ』(1999)というタイトルで書いた、トルコ語では『オスマン帝国宮殿、ある王朝の物語』という書名で出版された本ではオスマン帝国史家が触れなかったことに触れ、
オスマン帝国の全スルタンの肉体的な特性からそのキャラクターに至るまで、父母から子供たちに至るまで非常に豊かな情報に満たされたオスマン帝国の皇帝家について物語ったのだった。1926年にニューヨークに生まれたフリーリー氏は、アイルランドからニューヨークへと移住したある一家の子供だった。祖父の父親は、クリミア戦争で戦ったトーマス・アッシュだった。祖父から耳にした物語によりイスタンブルのことを5歳のころに知り、常にこの街を見たいという希望とともに成長したという。父親は墓堀り職人であり、母親は清掃人だった。高校の時は、それほど成績の良い学生ではなかったため
母親を説得して17歳の時に兵隊に加わった。そして第二次世界大戦に参加した。戦争が終わるとアメリカ政府が戦争に参加をするために教育を中断した若者たちに認めた権利の
恩恵を受けて大学に入り1951年に大学を修了したのちに9年間に渡り、日中は様々な仕事を行いながら夜にはニューヨークそしてプリンストン大学で修士課程と博士課程を修了した。
■夢の都市にやってきた
この間に妻のドロレスと知り合い、そして結婚をした。3人の子供ができた。1960年にはロバート・コレジで物理学を学ぶために常に夢に描いていた都市、イスタンブルへとやってきた、そしてイスタンブルに恋に落ちたのだった。ロバート・コレジで美学分野で授業を行い、また演劇を上演するヒラリー・サムナー・ボイド氏と出会ったのだった。
1960年代にはまだイスタンブルは完全には昔の面影を消失していなかったようだ、醜い建物によって占拠されていなかったようであった。各映画館では、安物のハリウッド映画が上映されていて、コンサートは滅多に開催されていなかった。歴史と芸術に関心のあった二人は、空いた時間をイスタンブルを練り歩きながら、観光に費やしたのだった。この果てしない散歩の結果、未だにイスタンブルの最高の観光ガイドである『ストローリング・スルー・イスタンブル:ア・ガイド・トゥ・ザ・シティ/イスタンブルを練り歩きながら:ある都市のガイド』が執筆されたのだった。
この仕事は、素晴らしい源泉への扉を開き、そしてまたそこからジョン・フリーリー氏のそれぞれの味わい深いオスマン帝国そしてイスタンブルの歴史書の数々がやってきたのだ。不運な皇子であるジェム・スルタンの興奮をもたらすような冒険譚を、そしてヨーロッパの君主達の間で、まるでサッカーボールのようにどのように引き回されてしまったのか、ということを物語った。
初めてロンドンにおいてナショナル・ギャラリーにて見たベッリーニの征服王メフメト2世のポートレイトと、イスタンブルで開かれた展覧会で再び邂逅すると、友人たちの『メフメトがモデルとなっているバイオグラフィが存在していないというのはなんと残念なことか』という発言を受けて、実際に、よく知っているこの時期に関しての調査をスタートさせたのだった。フリーリー氏は、すぐにこの仕事にかかりっきりとなり、そして『グランド・ターク/偉大なトルコ人』が出版されたのだ。書籍では、征服王の時期について物語ることでは終わらず、征服王の人間性、そしてキャラクターについて焦点を当てた。オスマン帝国社会において重要性を帯びる時期の物語を解説した『シャブタイ・ツヴィ(訳注:17世紀に急進的なメシアニズムを掲げてユダヤ社会に多大な影響を与えたユダヤ人神秘主義宗教活動家)の人生』というタイトルの仕事はいまだに、この分野におけるもっとも重要な作品のうちの一つである。
この間に友人であるアフメトS.チャクマク氏とともに共同で『イスタンブルにおけるビザンツ時代の記念建造物/ビザンチン・モニュメンツ・オブ・イスタンブル』といった非常に参照に値する書物を著した。しかしながら彼が著した書籍はただイスタンブルにだけ留まるものではなかった。ヴェネツィア、アテナ、そして少しずつ巡ったトルコの沿岸部を書籍化したのだ。
フリーリー氏 1970年代に息子のブレンダン氏とともに・・・
この間にロバート・カレッジで行った授業を、新設立のボアズィチ大学では物理
学、科学史、天文学の授業に変えて継続した。1976年そして1988年の間はイスタンブルを離れた、しかしながら1988年にはコチ高校にやってきた。1991年-1993年の間にヴェネツィアで生活をしたのちにボアズィチ大学に帰還した。
フリーリーの子供たちは今では別々の国で生活をしている。オルハン・パムクの小説を英語へと翻訳をおこない、その作家業を継続している下の娘であるモーリン・フリーリー氏もまた父親のようにイスタンブルから離れることはなかった・・・
■「私の父の魂が見出した場所はイスタンブルだった」(モーリン・フリーリー)
モーリン・フリーリー(65)は、先週に父親のためにボアズィチ大学で開催された追悼式典にて以下のように語った『彼の魂が見出した場所はイスタンブル/コンスタンティノポリス/ビザンツだったのです。最初の導き手はエヴリィヤ・チェレビでした。最初の一週間で、父はエヴリヤ・チェレヴィの『旅行記』の「旅行記」の中に記された数多の面影を見つけました。父親は、私たちを昔の都市の裏の路地へと連れていきますし、そしてまるで『イスタンブル』を巡る際にも、そうであったように、あらゆる街角においてエヴリィヤの魂が400年後にも未だに生きているという証拠をみつけてきました。『イタンブルのスケッチ』という本の中では、エヴリィヤ・エフェンディは単なる夢想の書き手というわけではなく、同時に認められた書き手の一人だったのです。モーリンさんは、亡き友人たちが父の脳裏にどのように思い浮かんだかということを次のような言葉で説明をしたと語っている。
「かつて私が見知った今や失われた街の中で、私の許に友人達は夜な夜な現れて来
ました。彼らの影は死者の世界において、夢の国において、オデュッセウスが旅の同伴者たちと出会うように墓場の後ろからいまだに私に語りかけてくるのです。」
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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
( 記事ID:52550 )