中東工科大で「アルメニア追放」コンフェランス
2023年04月25日付 Cumhuriyet 紙


中東工科大学アタチュルク主義思想研究会によって、同大学で1915年諸事件(*アルメニア人強制移住)に関する会議が行われた。歴史研究者のセチル・カラル・アクギュン教授は、「歴史とは史料そのもである。史料に向き合う必要がある。そうすれば、我々が無罪であることが明らかになるだろう。」と述べた。一方でウルチ・ギュルカン元国会副議長は、「民族抹殺に関して、法的に有効な裁判判決はただの一つも下されていない。反対に、民族抹殺がなかったという司法判決が出ている。世界のどの国も及ばないほど、我々は歴史的にも法的にも正しい。」と述べた。

4月24日、中東工科大学アタチュルク主義思想研究会は、1915年諸事件に関し「アルメニア人強制移住:歴史的事実と法的側面」と題して会議を実施した。セチル・カラル・アクギュン教授が進行を務めた会で、元国会副議長のウルチ・ギュルカン氏が演説を行った。この会の冒頭でアクギュン教授は、「歴史とは史料そのもである。史料に向き合う必要がある。そうすれば、我々が無罪であることが明らかになるだろう。」と述べる中、「史料が存在してさえいれば、我々の汚名を晴らしていただろう。彼らの手元に「民族抹殺」と言えるようなものは一つもない、なぜならそんなものはなかったからである。」と発言した。アクギュン教授は、民族抹殺の訴えが第一次大戦後の、「委任統治」的思考から生じたと指摘した。

■政府は何をしたのか?

ギュルカン元国会副議長は、演説の中で、1915年諸事件を民族抹殺と位置付けたジョー・バイデン米大統領に反発を示した。「民族抹殺という馬鹿げた考えは、無知から由来する大胆さとトルコがこの件に関し黙っているから生まれた」と発言した同氏は、「政府はこれまで、この件に関して何をしただろうか?沈黙することは、進んで受け入れること、またはそうだと知っていようがいまいが受け入れることであり、服従することである。世界のどの国も及ばないほど、我々は歴史的にも法的にも正しい。政治的無知が理由で我々は消費されている。」と述べた。ギュルカン氏は、民族抹殺という概念自体が法的概念でり、第二次世界大戦後に調印されたジェノサイド条約に基づいて犯罪として認められたのだと付け加えた。そのうえで、この条約では意図的であったという理由が求められ、罪が個々人の犯罪として規定されているのであり、こうしたことに対し権限を持つ裁判所が判決を下すべきであると主張した。

■我々は馬鹿げた事態に向き合っている

ギュルカン元国会副議長は、「民族抹殺に関して権限のある裁判判決は一つとしてない。『アルメニア民族抹殺』とする判決はないのである。反対に、民族抹殺ではないという趣旨の司法判決が存在する。当事者として誰が非難されているだろうか?人がいないのである。トルコ、オスマン帝国、トルコ民族が責められている。このような馬鹿げた事態と我々は向き合っている。」と発言した。

ヒトラーの亡霊が西欧に今も存在していると述べたギュルカン氏は、民族抹殺の申し立てが政治的意図を含んでおり、法的分野では有効性が見られないという趣旨の欧州司法裁判所の判決が存在していると伝えた。そして、「政府関係者はこうした判決をなぜヨーロッパに突きつけないのか?アルメニア民族抹殺の主張は、宗教的先入観に基づく帝国主義的な政治計画である。」との発言を行った。ギュルカン氏は、輸送と再定住の決定の後、オスマン帝国とマルタ島の英国王立検事局によって訴訟手続きが始まり、検事局が起訴すべき証拠が不十分として打ち切りを決定し、この決定が国際裁判所の判例に挙げられるうると主張した。

ギュルカン元国会副議長は、輸送と再定住の決定が4月24日ではなく、1915年5月に行われたと強調し、輸送された土地はオスマン帝国領内であり、この輸送と再定住が合法であったと話した。そして、「4月24日が民族抹殺の追悼日として宣言された要因は、[1920年]4月23日に開かれたトルコ大国民議会がアタチュルクの指導の下に推し進めた独立戦争が、受け入れられていないことにある。」と述べた。アルメニア民族抹殺の主張が政権の沈黙のなかで胚胎されていると強調したギュルカン氏は、当該時期に関するアメリカ合衆国の文書と委員会の報告書を指摘しつつ、故バーナード・ルイス教授による「祖国の防衛を民族抹殺と定義することはできない。そうした定義があるのは、ローザンヌ条約で引かれたトルコの国境が真に認められておらず、[同条約前の]セーブル条約の幻想が未だに影を落としているからである。」との趣旨の発言に触れた。

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( 翻訳者:村田七海 )
( 記事ID:55489 )