オスマン時代から残る泉水をガラタサライのチームカラーに塗るなんて!
2023年06月15日付 Cumhuriyet 紙


イスタンブル、ファーティフ郡で、造船所長官、大宰相サーリフ・パシャによって造られた200年の歴史を持つサーリフ・パシャの泉は、サッカーチーム、ガラタサライの優勝に伴い黄色と赤に染められた。美術史の専門家フェフミ・ユルマズ氏は「勝利の興奮はもっと別の形で、文化財に干渉しない形で行われなければならない」と述べた。

ウンカパヌ地区にあり、造船所長官、大宰相サーリフ・パシャによって造られた200年の歴史を持つサーリフ・パシャの泉の一部が黄色と赤に染められた。ガラタサライ・ファンだと思われるグループは、泉のある通りの歩道や、電柱も黄色と赤に染めた。その際に道に面する歴史的な泉の一部も黄色と赤に染めたことが明らかになった。SNSの反応を受けて、赤色の上は最初は黄色、その後白いペンキで塗りり込められた。

■「泉からはハミディエとテルコスの水が出ていた」

カンベル・ヒュセイン・アイドゥンさんは、泉のある通りに何年も住んでいると述べ、「泉からは、昔はハミディイェの水が、その後はテルコス・ダムの水が流れていたが、今は止まってしまった。ガラタサライが優勝した後、地元の若者たちは、 泉の枠を塗った。歩道もだ。彼らのやったことが正しいのかどうかは私にはわからないが、彼らは歩道をきれいに塗った」 と話した。

■「反対したのにも関わらず以前にもコンクリートが被せられました」

歴史あるサーリフ・パシャ・モスクで21年間イマーム職を務めるニヤズィ・シェケルジさんは、「私たちのモスクは歴史的なモスクであり、その泉も歴史的なものだ。もともとここは原型に反する形で漆喰が塗られていた。碑文は元からあったものだが、この部分は漆喰で塗られ、塗装されている。これらは誤りだ。 日曜日ガラタサライのファンたちはここを塗った。歩道も塗ったようだ。私たちはこれを認めない。以前ここにコンクリートが被せられるようなことになった。私が反対したにもかかわらずだ。ここには行商人の兄貴がいて、ここにコンクリートをかぶせた。 ここに溝があったのを埋めたのだ。このようにして、私たちのモスクの泉が害された」と述べた。

■「この不愉快な出来事によって話題になった」

美術史家ハイリ・フェフミ・ユルマズ氏は、サーリフ・パシャの泉は地区のシンボルであると述べた。 ユルマズ氏は、「この不愉快な出来事によって話題になった。 イスタンブルの皆さん、見方によればこれはおそらく前向きなことである。イスタンブル住民はイブン・イ・メッダス・サーリフ・パシャ・モスクを、この美しい泉を、この小さな広場と通りの質感を見る機会を、思い起こす機会を得たのだ。ここはイスタンブルで最も木造建築が保存された通りの 1 つであり、それも覚えておく価値があるからだ。残念なことに、興奮しすぎると、私たちは時々何をしだすのか分からなくなってしまう。私たちはその街や地区のシンボルになるような、その地区の名前の由来になるようなものにすら、一瞬で自分の好きなことをできてしまう。もちろんこのような色に塗ること、あるチームの色に塗ることは良いことではない。少なくともそれは物議を醸した。泉はより良い手入れがされるかもしれない。その名にちなんで名付けられた地区で、より良いイメージとともにイスタンブルの人々の注目を集めるだろう」と語った。

■文化遺産にこのように手を加えてはならない

美術史家のユルマズ氏は、「もちろん関係者はすぐに必要な対策を行なっている。このことを口にすべきである。これはとても素晴らしい泉であり、こうして(その由来を伝える)慈善施設の碑文を目にしている。装飾を施した石、そこには蛇口がなければならない。下にある台座はそのまま残っている。そこには古い写真では水の受台が部分的に窺える。それも今はない。ここにはさらに地面と泉の建造物との間に高さの違いがあった。だから、泉が少し地に埋まっているように見える。泉をこのように回顧することがより正しい。恐らく今後実施する修復でこの地区により役立つことになろう。でも文化遺産にこのように手を加えるべきでない。文化財は皆の共通の遺産であり、人類共通の遺産だからだ。つまり、泉をこのように扱ってはならない。興奮をもっと違った形で、文化財に手を加えることなく振る舞うべきだ。でも、ご覧のように、少なくともイスタンブルのこの麗しい一角を回顧することにはなった」と述べた。

■この泉は古典的オスマン様式の、地区の泉である

美術史家のユルマズ氏は、「ここはそもそもイスタンブルの麗しい一角、地区としてはサーリフ・パシャと知られている。すぐ裏には素晴らしい礼拝所(mescit)がある。これは君主メフメト二世の時代の作品の一つである。アマスィヤ出身のイブン・イ・メッダスによって作られた。しかしその後、ほぼ一世紀のちに背後に、この小さな広場を成すこの場所に一つの泉が作られた。この泉は古典的オスマン様式の、地区の泉である。だからサーリフ・パシャの名前で言及され始めた。さらに背後にあるモスクもこの泉の名を取り、地区も。ここは歴史の機微をよく保持できたイスタンブルの通りの一つに当たる。もちろん、この泉も歴史上、何度か修復を受け、その形で今日に伝わっている。残念ながら地面がいくらか隆起したので、部分的に水の受台は地面に埋もれてしまっているし、装飾を施した石は損傷を受けているが、20世紀の初頭に、1912-13年に行われた修復の碑文が現在も残っている。そもそもサーリフ・パシャの泉を、ある慈善家が20世紀の初頭に修復させたのであって、その人の名前はゼイネップ・ハヌムというイスタンブルの人で、恐らくこの地区に暮らしていた。泉はこの形で今日に伝わった。泉には、恐らく木製のひさしがあるはずで、古い写真ではそう見える。それは全く残っていない」と語った。

■「このような文化遺産への介入はすぐに社会で大きな注目を集めた」

美術史家のユルマズ氏は、「意識を高める必要がある。私たちが文化財の豊かさを誇る社会であることは間違いない。しかし、それらを伝えるものが私たちの教育体制には何もない。残念ながら、トルコではトルコの持つ豊かな文化遺産を私たちの教育体制では若者たちに伝えてはいない。我々の子どもたちに一切共有していないのである。結果、その意識の形成も弱まっている。しかし、それでもこの件には感謝できる。このような文化遺産への介入はすぐに社会で大きな注目を集めた。誰もが、皆さんもが、この件の当事者になっている。ご存知のように、ここはイスタンブルの[歴史的な]生きた一角であり、思うにイスタンブルの人々はこの件で少なくとも文化遺産に関わることになった。私たちはこのようなことが続くことを望んでいる。願わくば、より良く関わって、泉がより美しく見られる形に整備されることを願う」と述べた。

反応後、泉の黄色と赤に塗られた部分が、先ずは黄色に塗られ、次いで白に塗られた。 ファーティフ自治体からは説明はなかった。

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( 翻訳者:芝田幸恵 )
( 記事ID:55788 )