中近東文化センター松村発掘チーム、ヒッタイトの石板発見
2024年06月18日付 Cumhuriyet 紙
クルッカレで発掘調査を行う考古学者の松村公仁准教授は、ビュクリュカレ発掘地域でヒッタイト帝国由来の3300年遡る粘土版を見つけた。ヒッタイト期に関わるこの重要な発見は、歴史の真っ暗なページに明かりを照らした。ヒッタイト王家の宗教儀式に関わる情報を含む粘土版の中でアルザワ王タルフンタラドの名前に触れていることに注目が集まっている。
クルッカレのカラケチリ郡に位置するビュクリュカレにおいて、松村公仁准教授が代表である日本アナトリア考古学研究所チームは、15年間続く発掘調査で重要な発見を成し遂げた。「下市(Aşağı şehir)」と「上市(Yukarı şehir)」と二ヶ所からなる考古地域を含んでいる発掘現場では、数千年の歴史の跡が明るみされている。発掘調査では、ヒッタイト帝国に関する3300年の歴史を有する、楔形文字で書かれた粘土版が発見された。この粘土版は、ヒッタイト語とフルリ語で書かれており、ヒッタイト王家の宗教儀式を説明している。
◾️ビュクリュカレはヒッタイト帝国の戦略上重要性な都市
粘土版では、ヒッタイト帝国を災禍に導いた外国の侵攻にも言及されている。さらに、粘土版でアルザワ王タルフンタラドの名前に触れていることに注目が集まっている。この名前は、以前にエジプトの都市アマルナで発見された粘土版でも確認されている。ビュクリュカレ発掘場所でなされたこの発見は、その地域がヒッタイト帝国の戦略上重要な都市であることを示している。発掘調査で明らかになったこの重要な発見は、歴史の真っ暗なページに明かりを照らし続けている。
クルシェヒル・アヒー・エブラン大学考古学科の教員にして発掘リーダーである松村公仁准教授は、イフラース通信(İHP)記者に行った説明の中で、ヒッタイト王と女王がフルリ語で宗教儀式を執り行っていることを、粘土板が証明していると明らかにした。また、フルリ語で書かれた粘土版は、アナトリアではボアズキョイ、オルタキョイ、カヤルプナルでのみで発見されているとし、四番目の地点としてビュクリュカレで発見されたことは驚くべきことであると述べた。
◾️「ヒッタイト王家に関係」
松村氏は、「フルリ語の粘土版が発見されたことは、ヒッタイト王と女王がここへ来てフルリ語による宗教儀式を行ったことを示している。ここへ来たことは確かである。ひょっとしたら、ある期間ここに住んでいかもしれないが、正確なことはわからない。フルリ語で書かれた粘土版はアナトリアでは三ヶ所でのみ発見されている。ボアズキョイ、オルタキョイ(チョルム)、カヤルプナル(シウァス)である。私たちはこれらの地でヒッタイト王家が住んでいたのは明らかであると知っている。四番目の地点として発見されたビュクリュカレがどのような都市であったのかは明らかになっていない。なぜここでフルリ語の粘土版が発見されたのか?このことはヒッタイト王家に関係していることを示している。大変重要な都市の一つであるということである。」と言った。
松村准教授は、アナトリアではボアズキョイ、オルタキョイ、カヤルプナルでのみフルリ語で書かれた粘土版が発見されているとし、ビュクリュカレでもフルリ語で書かれた粘土版が出現したと明らかにした。同准教授はこの粘土版はヒッタイト王家に関係するものと考えている。さらに、カタパでのみ見つけられたフルリ語で書かれた祈願文が、ビュクリュカレでも出現した謎を調査し続けるつもりであると述べた。
◾️「カタパの名がなぜここで?」
粘土版が大きな発見であると説明した松村准教授は、次のように話した。「ヒッタイト語でどのように祈願がなされる必要があるのかが書かれており、フルリ語による祈願文が記されている。このテクストの中で最大の発見あるいは驚きなのは、カタパという名前の都市名が判明したことである。カタパという地名がなぜビュクリュカレで現れているのかは未だ明らかになっていない。カタパでなされるべきこの祈願文がなぜビュクリュカレで見つかったのか?この大きな謎を解決する必要がある。」
◾️「ビュクリュカレでの発見はとても驚かせた」
松村准教授は、粘土板で言及されているタルフンタラドが1890年代にエジプトの都市アマルナで見つかった粘土板でも名前が出てきたと述べ、「さらに、この粘土板の中で複数の個人名が記されている。これらの中で最も重要な名前は、アルザワ王のタルフンタラドの名前である。アルザワ王タルフンタラドの名前は、1890年代、エジプトの都市アマルナで発見された粘土板で確認された。都市アマルナは、世界的に有名なタルフンタラドの父、アメンホテプ4世によって建設された主都であった。そこで見つかった粘土板の中で、アメンホテプ4世の父、アメンホテプ3世がアルザワ王タルフンタラドに送った手紙が発見された。その手紙では、ボアズキョイが侵攻されたことを伝えている。アルザワ王と政略結婚を行い、関係を強化することを望んでいる旨を示している。そのような大きな出来事で言及されている王の名前がビュクリュカレで発見されたことは驚くべきことだ。」と話した。
この記事の原文はこちら
( 翻訳者:鈴木啓太 )
( 記事ID:58132 )