日本でエルトゥールル号犠牲者追悼行事、アタテュルク像も除幕
2010年06月03日付 Radikal 紙
オスマン帝国艦隊に属すエルトゥールル号の沈没により海に沈んだ600人近い海兵が、日本で追悼された。
事故の120周年にちなみエルトゥールル号が沈没した日本の串本市で、二つの式典が行われた。式典には、日本の皇室から寬仁(ともひと)親王とその娘の彬子(あきこ)女王殿下、同地の政治家、軍関係者、また、エルトゥールル号艦長オスマン・パシャの子孫であるオスマン・テクタシュさんが参加した。
■海上での式典
最初の式典は日本の駆逐艦みなべ号でおこなわれた。トルコの在日本大使セレメト・アタジャンル大使は、事故現場の海域で行った演説で、「この事故は非常に悲しいものであったが、この事件が、トルコと日本の人々の、永遠の友好のために役立つならば、それは最大の慰めであります」と述べた。また、アタジャンル大使は、1929年6月3日にトルコ殉職慰霊碑を訪れ串本市民がこの事件を悼む式典を毎年行うきっかけをつくった昭和天皇と、島の人々の先祖に敬意を表すると述べた。アタジャンル大使は、事故の際に救助された海兵を介護した串本市民と、助かったこれらの人々をイスタンブルに送りとどけた日本海軍にも感謝した。
式典では、黙とう、礼砲、来賓あいさつが行われたのち、参加者らが亡くなった海兵のために海に花を投げ入れた。
■陸上での式典
第二の式典は、串本市にあるトルコ海難慰霊碑で行われた。彬子女王殿下が寬仁親王の挨拶を代読し、そのなかでは、1985年のイラン・イラク戦争時にテヘラン空港に取り残された200人以上の日本人をトルコが助けた事件にも言及された。
アタジャンル大使の挨拶は次のとおり。
「トルコと日本の友好関係はこの記憶のうえに築かれました。祖国を何千キロもはなれ、嵐の夜の暗闇のなか、なすすべもなく海に沈んだトルコの海兵に手をさしのべ、助かった人々に食べ物や着るものをあたえ、傷を治療し、そして亡くなった人々の記憶を120年にわたって守ってくださった串本のみなさんに心から感謝します。犠牲者たちが、友であり兄弟である日本の人々に抱かれ安らかに眠っているのを感じます。」
エルトゥールル号は1890年9月16日に日本から帰還の途中、台風に巻き込まれた沈没した。
■慰霊碑にアタテュルク像
トルコ海難慰霊碑での式典に先立ち、4,5メートルの高さのあるアタテュルク像の除幕式が行われた。
土台も含めると7メートルはあるこの銅像は、彫刻家メティン・ユルダヌル氏の作品で、1996年に首都東京から300キロの位置にある柏崎に開設された「トルコ文化村」に設置されていたものである。当初は民間の商業施設であった「トルコ文化村」はのちに地方自治体の傘下にはいっていたが、2005年におきた新潟地震ののち、閉鎖された。このためしばらくの間、倉庫にしまわれていたこの銅像は、在日トルコ大使館と日本財団の協力により、エルトゥールル号が沈み、太平洋をみおろすこの場所に移設された。
彫刻家のメティン・ユルダヌル氏は、除幕式のあと、「私はいま、太平洋をのぞむこの素晴らしい場所に、すばらしい雰囲気のなか、一人の芸術家として鳥肌のたつ思いでたっている」とのべた。そして、日本の人々のトルコとアタテュルクに対する愛情に対し、今一層の誇りを感じているとし、この像は、アタテュルクが、「サカリヤ」と名付けた馬に平服でのり、手で、開明・近代化・平和・友好・友愛をさし、全ての人類に「内に平和、外に平和」の言葉で呼びかけているものである、と述べた。
式典では、トルコ軍の軍楽隊もショーをおこなった。式典への参加者は、その後、1974年に慰霊碑近くに開設されたトルコ博物館を訪問した。そして、夜には、トルコと日本の友好の120周年を祝うレセプションが行われることになっている。
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翻訳者:トルコ語メディア翻訳班
記事ID:19321