首相の批判をうけ、ハサン・ジェマル紙ミッリイェト紙離職
2013年03月18日付 Radikal 紙
今日、15日間休職していたハサン・ジェマル氏がミッリイェト紙に提出した原稿は掲載されなかった。これを受けてハサン・ジェマル氏は、1998年から15年間筆を取ってきたミッリイェト紙から辞職することを決めた。
2月28日付のミッリイェト紙の一面に、「イムラル島の面会記録」という見出しで掲載されたナムク・ドゥルカン氏の記事をめぐる議論は、ハサン・ジェマル氏の辞職によって終結した。「イムラル島の面会記録」が報じられた後、ハサン・ジェマル氏は2本の記事を書いた。最初の記事は、「和平は熟した、展開の全てを見逃すな!」という見出しで3月1日金曜日に掲載された。この記事は、ミッリイェト紙とナムク・ドゥルカン記者に対する祝福によって始まっていた。
ジェマル氏の二番目の、そして最後の記事は、3月2日に掲載された。この記事の見出しは、「首相殿、歴史は再びあなたの手にかかっている。歴史は時に、過ぎていくその最中にも捕らえることができる!」であった。ジェマル氏はこの記事で、イムラル島の面会記録を掲載したミッリイェト紙を責めた人々を批判し、「新聞を作ることと国を治めることは別のことだ。混同しないでほしい。誰もそのような形で他人の仕事に干渉しないでほしい」と語っていた。
■首相は言った。「そんなジャーナリズムは破滅してしまえばいい」
タイイプ・エルドアン首相は、3月2日、バルケスィルでの演説において、「そんなジャーナリズムは破滅してしまえばいい」と述べ、ハサン・ジェマル氏の記事に直接言及した。エルドアン首相は次のように語った。「記者の中には、国を治めることと新聞を作ることは別のことだと主張する者がいる。しかしもしこの国に対し塵ほどの愛があるならば、もし(クルド)問題の解決に貢献したいと思うならば、こんな記事を載せたりしないだろう。載せてはならなかったのだ。 この解決プロセスは非常にデリケートである。(…)もしこのような報道を行なうのなら、そんなジャーナリズムは破滅してしまえばいい…。」
首相から上記のような叱責を受けた後、ミッリイェト紙のオーナーであるエルドアン・デミルオレン氏が、同紙の編集主幹デルヤ・サザク氏に対し、「面会記録」の報道を弁護したハサン・ジェマル氏の姿勢に不快感を感じると伝えたことが、その後メディア関係者に伝わった。デミルオレン氏は、ジェマル氏と、コラムにおいて首相の叱責を批判したジャン・デュンダル氏を解任したがったが、サザク氏や編集部は抵抗したとされている。この危機的状態は、デュンダル氏は執筆を続け、ハサン・ジェマル氏は2週間の停職を受けることでひとまず凍結された。そしてジェマル氏の2週間の停職が終わる今日、ミッリイェト紙の動きに注目が集まった。
■どうなったのか?
ジェマル氏は、月曜日は休日であるため、火曜日に掲載される記事を3月16日土曜日にデルヤ・サザク氏に提出した。サザク氏は、ハサン・ジェマル氏にこの 記事を掲載することはできないと伝え、新しい記事を書くよう求めた。これに対するジェマル氏の返答は、「提出した記事が掲載されないかぎり、新しい記事は送らない」というものであった。
以下が、ミッリイェト氏に掲載されなかったハサン・ジェマル氏の記事である。
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2週間閉鎖されていたコラムを開こう
ジャーナリズムと記者のために。
エルドアン首相が、バルケスィルにおいて、ナムク・ドゥルカン記者の「イムラル島の面会記録」を掲載したミッリイェト紙に向けて「こんなジャーナリズムは破滅してしまえ!」と言ってから2週間、このコラムは閉鎖されていた。
エルドアン首相は、バルケスィルでの演説において私をも標的にした。私を名指ししたわけではないが、ドゥルカン氏の記事とジャーナリズムを擁護した私のコラムの一文そのまま引用し、私にも圧力をかけてきたのである。
私はその一文で、己の職業の最も基本的な原則を、慎重に強調した。私は「ジャーナリズムと国政」が別物であることを明らかにし、2つの間の境界線を示した。
要約するとこういうことだ:
「民主主義において、政治家は国を治め、新聞記者は新聞を作る!」
まさにその通りだ。
民主主義体制においてジャーナリズムの境界線を築くのは、自由とジャーナリズムの普遍的原則のみである。政権の意向や、「国家的/非国家的」といった基準ではない。
ジャーナリズムの普遍的原則には、常に明確化するのは難しいものの、疑い無く「責任」も含まれている。しかしこの責任感は、政権中枢の者たちが考える「責任」とは合致しない。合致しなければならないわけでもない。
民主主義においてジャーナリズムと政権はしばしば折り合えず対立する。
こうした状況は数多く見られる。
関係がこじれ、断絶してしまうこともある。
特にアメリカの民主主義には、この点で非常に興味深くヴィヴィッドな例が存在する。
しかし今はこのことは置いておこう。
今日は、「イムラル島の面会記録」のために政府とミッリイェト紙の間で起きた「事件」の背後に立ち入るつもりはない。特定の個人の話をしたいわけでもない…。
こうした「事件」が私の身に降りかかるのは今回が初めてではない。長年の間、多くの私の同僚たちがこの道を通ってきたし、残念なことに今でも通りつづけている。
メディアと政権の関係は、この国で当初から問題になってきた。なぜなら「政治の世界の権力者たち」はいつもメディアと報道従事者を、大抵の場合自分で引いた「赤線」によってコントロールしようとしてきたからだ。そのために、経済的、政治的、法的圧力がかけられてきた。
これは今も全くをもって変わっていない。
メディア有力者のジャーナリズム以外の分野における経済利益も、政権の力を強化した。
言い換えると:
メディア有力者の、自らの仕事と絡んだ政府の必要性、もしくは経済活動における政府の強い影響力がトルコの法制度の未熟さとも結びついたとき、政権はメディアをより容易に操ることができた。
他方でジャーナリズムに対する眼差しがある。メディア有力者たちの熱い眼差しが…。
それは1990年代初めのことだった。
私はジュムフリイェト紙の編集主幹であった。トルコのビジネス界最大の権力者の一人が新聞を出したがり、私の意見も求めてきた。
私は彼に尋ねた:
「なぜ新聞を発行したいのですか?ヨーロッパの素晴らしい冷蔵庫の工場や、素晴らしいテレビ工場、それから銀行も手にした上に、素晴らしい新聞まで欲しいのですか?もしくはライバルに対抗してアンカラに政権以外の新しい勢力を樹立するために、新聞を出したいのですか?アンカラにおける自分の利益を守り拡大するため、でなければ良い新聞のオーナーになるため。どちらですか?」
私はこのエピソードを以前にも書いたことがある。しかし私のこの質問は今日も有効である。政府や政権とメディアの関係の問題や欠点は、かつてと同様に今日もまだ上記の質問に結びついていると思う。
しかしこれだけではない。
「報道従事者」特に「報道エリート」が、政権‐メディア関係を逸脱させる、もしくはレールに載ることのできない性質を持った任務を抱えていることも覚えておかなくてはならない。
この国で、経営者―そして主要なジャーナリストたち―は、権力者に対しジャーナリズムを擁護できずにいるのと同じように、パトロンたちに対して、さらに言えばパトロンに「反して」も、上手くジャーナリズムを擁護できずにいる。このため、彼らは(報道という)職業を軸に強力な共同綱領を打ち立てることができなかった。
それを特に強調しておきたい。
これについては、45年間のジャーナリズムのキャリアの中で私にも思わしくない点がある。
詳細には立ち入らない。
今は立ち入りたいとも思わない。
「政権‐メディア」、「政権‐記者」、「記者‐パトロン」の関係をふさわしいものにするために、報道従事者にも職業上の責務があることは明らかである。
それを無視するつもりはない。
起きていることを手をこまねいて、もしくは自分には無関係であるかのように傍観すること、つまり無関心でわれ関せずの態度は、この国において民主主義と法治国家制度が二流に留まっていることの大きな要因である。
ジャーナリズムの旗をどれほど高く掲げても、自らの職業の独立と自由をどれほど声高に叫んでも、ミッリイェト紙の編集主幹デリヤ・サザク氏の言葉を使えば当てつけにジャーナリズムの道をどれほど歩んだとしても、その分、この国の民主主義と法のハードルが上がってしまう。
これは、トルコが現在、「クルド問題」に関し迎えている決定的な時期において、非常に重要な意味を帯びている。民主的法治国家のハードルが高くなる分だけ、この国の平和と安泰の扉が開くのである。
我々ジャーナリストが己の職務をよく十分に果たしたら…。ジャーナリストがジャーナリストの仕事を、パトロンがパトロンの仕事を、政治家が政治家の仕事を、よく十分に理解したら…。そうしたら疑いなく誰もが安心し、誰もが平穏を得て、この国の民主主義と平和がふさわしい形に落ち着くだろう。
自らの職業を長年心から愛してきたジャーナリストとして、私はあらゆる問題や障害を理解した上で、なお未来に希望を抱いている。
特にこの2週間に経験したことから、私のこの感覚と考えはより強力になったといえよう。
さあ自分の仕事を見つめよう。
自分の仕事をきちんと果たそう。
私は2週間の強要された休暇の後で初めて書いた文章を読み返して、正直なところもっとよく書けたのにと考えざるをえないが…。
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翻訳者:篁日向子
記事ID:29511