トルコ文学:明日、女性が一人として命を落とさないように―ハティジェ・メリイェム氏が女性殺人についての連作小説刊行
2019年11月22日付 Hurriyet 紙
ハティジェ・メリイェム氏が、「この本は、明日殺されるかもしれない一人の女性のように息も絶えるかというところで書き上げました」と語る、『女性を殺すのはどこから始まるのか(Bir Kadını Öldürmeye Nereden Başlamalı)』は、文学的な観点から成功を収めている程に、取り上げた問題がいつも社会で話題になることであるために、よく読まれ、そして語られるであろう本である。
各種の統計によれば、2015-2018年の間に合計で1559人の女性が殺害された。
2019年の最初の6か月ではトルコにおいて214人の女性が殺人事件の犠牲者となった。
『女性の殺人事件』は、近年の重要な議題の一つである。
頻繁にニュースに取り上げられ、また同時にとても話されて、議論されていることである。ニュースに取り上げられれば、取り上げられるほど、話されて議論がされるほど、まるでその数が増すかのような感覚ももたらしている。まるで模倣が、模倣させることが存在しているかのようである。これもまた、問題をかなりデリケートなものにしている。どのような場所で、どれほどまで語らなければならないものであるのか、考えさせるものである。
私はそれについて語られることを、考えられることを、解決が生みだされることが必要であると考える人間の一人である。
芸術作品に対して、演劇へ、映画へそして文学においてもテーマとならなくてはならないし、また実際に取り上げられている。
これらの内の最新の事例の一つがハティジェ・メリイェム氏の『一人の女性殺害はどこで始めなければならないのか』である。ハティジェ・メリイェム氏は、女性たちが直面する問題の数々を取り上げて、彼女たちのことを取り扱う作家である。小説、物語、シナリオそして演劇作品の数々においてこの問題の数々を取り扱った。ハティジェ・メリイェム氏は、「プロジェクトの本」を執筆することを、あるテーマを、大人たちについて縦横無尽に調べあげることを、転覆させることが好きなのである。
『蠅のように私の夫になればよい、あなたは私の頭に居続ける(Sinek Kadar Kocam Olsun Başımda Bulunsun)』においては、「ある一人の夫となる状況」のことを物語った。
『私の頭の中の蛇(Aklımdaki Yılan)』においては、母親であることの境遇について取り上げた。『女性を殺すのはどこから始まるのか』においては、男性たちが犯した女性殺人事件が取り上げられた。10本の物語においては、夫たち、愛人たち、そして息子たち、叔父の妻たちを、愛人たちを、母親たちを、兄弟を、隣人たちを、全く知り合いではなかった女性たちをどのような理由によって、どのように殺害したのかということを物語に書き上げた。私は物語にした、と言っている。なぜならば物語られる殺人事件に類似した事件は毎日、新聞の3面記事で読んでいるからである。ハティジェ・メリイェム氏は、起こった事件を彼女特有のナラティブによって物語化している。つまりは、文学は現実の跡から生まれているのである。存在していることを、見られることが忌避されるものを、文学を介して再び話題としているのだ。
一体誰が殺しているのか?「殺人者たちは、その大半が殺害された女性たちの近しい親族であるか関係を持っている男性たちであるということを学びました。」とハティジェ・メリイェム氏は書いている。「男性たちが、女性を殺すために用いたやり方の中にはナイフ、石、棍棒によって殴る、斧を用いて、ピクニック用コンロ、クリスタル製の花瓶で頭や目を傷つける、車で轢く、システマティックに精神的な暴力を行使して殺すといった方法が存在していた。トップにくる理由は因習殺人。」といって、その方法そして理由もまた本の最後において「私はなぜこの本を書いたのか?」という題のコラムで書いている。
今日の私たちの文学においてはこのような類の書き物にはあまり出会うことはない。必要性を感じられないからだ。読者は作家の心情を理解するだろうと考えられている。
しかしながら近年においては読者として理解することにおいては、ある後退があるということも真実だ。私たちは、読んだものを理解することができないのである。たった一つの意味を理解しようとしかしない。芸術作品を一つのニュース、または一つのレポートのように理解をしているのだ。ブラックジョーク、暗示のようなものについては何も知らされていないというように振舞っているのである。問題ついて、その中の全ての見方を「促進させているもの」として理解しているのである。私が思うに、ハティージェ・メリィエム氏も同じ不安を感じたのだろう、本を、物語を執筆するのを終えたのちに。誤って理解されるかもしれない、と言ったのかもしれない。説明する必要性を感じたのだろう。
「この本は、明日殺されるかもしれない一人の女性のように息も絶えてしまうかというところで書きあげました。私はこの本を明日一人の女性がもう殺されることはありませんように、という思いで書き上げたのです。私はこの本を社会的な啓発に慎ましやかな貢献をもたらすために執筆しました。」と述べている。また同時に個人的な、彼女の家族に関する理由も存在している。
ハティジェ・メリイェム氏は、この生命を危機に陥れる問題に対して加害者の視線から眺めている。彼らの精神状態を理解しようと、なぜ殺人犯となってしまったのかということを説明しようと試みている。現代に生きる人間は、たった一通りの見方から簡単に捉えることはできない、簡単に誤解される方法である。ハティジェ・メリイェム氏は、卓越した物語の語り手としてこれを乗り越えたようだ。そこには素晴らしく有効な物語の数々が登場した。『女性を殺すのはどこから始まるのか』は、文学的な観点から成功を収めているのと同時に、取り扱われている問題は常に社会のニュースになっているために、多くの人に読まれまた語り合われるであろう書籍である。
『女性を殺すのはどこから始まるのか』
ハティジェ・メリイェム
イレティシム出版社、2019
84頁、14TL
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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:50188