セイエド・エブラーヒーム・ライースィー師は、アボルハサン・バニーサドル氏、モハンマドアリー・ラジャーイー氏、大アーヤットラーのハーメネイー師、アーヤトッラー・ハーシェミー・ラフサンジャーニー師、セイエド・モハンマド・ハータミー師、マフムード・アフマディーネジャード氏、ハサン・ロウハーニー師に続く、過去42年間で8人目のイラン・イスラーム共和国の大統領とみなされている。
【ハムシャフリー電子版】実は、セイエド・エブラーヒーム・ライースィー師は、一つの権力の長から別の権力の長へと移る二人目のイラン大統領である。彼が出てくる前は、アーヤトッラー・ハーシェミー・ラフサンジャーニー師が、1368年(西暦1989年)当時に国会議長を務めていた際、大統領選挙に立候補し、バハーレスターン[バハーレスターン広場;国会議事堂が所在]からパーストゥール[パーストゥール広場;大統領府が所在]へと移った。1376年[西暦1997年]には、第5期国会議長であったアリー・アクバル・ナーテグヌーリー師がもう一度同じ道をたどったが、また国会のほうへと戻ってしまった。今回、エブラーヒーム・ライースィー師は司法府長官という立場だったが、1396年[西暦2017年]の選挙で約1600万票を集め意欲を燃やしていた。彼は当時アースターン・ゴドゥス・ラザヴィー財団の管理者であったが、選挙ではハサン・ロウハーニー師に敗北を喫した。
ライースィー師は、大アーヤットラーのハーメネイー師に続く2人目のマシュハド出身の大統領である。彼は、マシュハドの最高指導者代理であるアーヤトッラー・アラモルホダー師の娘の夫でもあり、アーヤトッラー・アラモルホダー師の長女であるジャミーレッサーダート・アラモルホダー氏との結婚は1362年[西暦1983年]に実現した。ライースィー師は当時23歳であり、キャラジとハマダーン市の検察官を兼務していた。
彼の配偶者の父は当時テヘラン第10区のイスラーム革命委員会の委員長を務めており、テヘランの闘う聖職者協会中央評議会のメンバーであった。アーヤトッラー・アラモルホダー師は96年の選挙で、自身の娘の夫の清廉さを称賛し、彼[ライースィー師]の背後で礼拝を行なっている、と述べていた。
この結婚の2年後、ライースィー師は、テヘランの革命検察官の後任者として任命され、テヘランへ移った。このようにしてライースィー師はテヘランで司法機関の長としてのキャリアを開始した。無論、ライースィー師は、30年後の1394年エスファンド月[西暦2016年]にはもう一度マシュハドに戻り、アースターン・ゴドゥス・ラザヴィー財団の管理者にならなければなかったのだが。彼は、大統領選に向けた活動をまさにその場で開始した。エブラーヒーム・ライースィー師は、この30年間で国内の司法システムにおける一人の老練な司法官へと変貌を遂げた。テヘランの検事職から全10年間の統合監察機構長官、そして検事総長にいたるまでが、司法府においてエブラーヒーム・ライースィー師が歴任したポストであった。
彼はこのすべての歳月において、元司法府長官である故アーヤトッラー・モハンマド・ヤズィーディー師、同じく元長官である故セイエド・マフムード・シャーフルーディー師、そして同様に前司法府長官のアーヤトッラー・サーデグ・アーモリー・ラーリージャーニー師より命を受け、同時に1360年代(西暦1980年代)にはエマーム・ホメイニー師より命を受け任務にあたっていたが、同師はその後最高指導者[ハーメネイー師]より4つの新たな命を受けている。エブラーヒーム・ライースィー師は、1391年[西暦2012年]より最高指導者の命を受け、特別聖職者検察官として任命された。
同師は1396年[西暦2017年]に最高指導者の命を受け、アースターン・ゴドゥス・ラザヴィー財団の管理者に任命され、同年には体制利益判別会議のメンバーにも任命された。1397年[西暦2018年]には、最高指導者より、司法府長官に任命された。そして彼はもちろん最新の命を、45日後の就任式にて最高指導者の手より直接受けることになるだろう。
エブラーヒーム・ライースィー師は、自身が司法府で任に当たっていた時期を変革の時期と名付けた。この時期に、同師は市場の腐敗と混乱を撲滅することを自身のアジェンダに盛り込んだ。金貨王として知られたヴァヒード・マズルーミーン氏の処刑、瀝青王として知られたハミードレザー・バーゲリー・ダルマニー氏の処刑、司法府の元財務局長で[執行担当]副長官でもあったアクバル・タバリー氏の裁判及びテレビドラマシリーズ「シャフルザード」のプロデューサーであるモハンマド・エマーミー氏の裁判は、ライースィー師が長官であった時期に司法府によって調査されたもっとも重要な事件である。
セイエド・エブラーヒーム・ライースィー師は、EUとアメリカの制裁を受けている最初のイラン大統領である。2011年3月にエブラーヒーム・ライースィー師の名がEUの制裁対象となるイラン人高官80名のリストに掲載された。制裁の理由は人権問題によるところが大きい。1398年アーバーン月13日[西暦2019年11月4日)に米国財務省は、セイエド・エブラーヒーム・ライースィー師を含むイランの要人のうち9名に制裁を科した。米国は制裁の口実として、アーバーン月の抗議[注:2019年から2020年にかけて発生した、イラン各地での抗議活動のこと。国民が石油価格の上昇に対し各地でデモ活動を行い、多くの負傷者を出した。]やその他の歴史的な事件を挙げている。
おそらく米国とEUの初めの措置としては、国際法に準拠し制裁リストからライースィー師の名前を削除しなければならないだろう。