トルコ文学:ムラト・ギュルソイ氏新刊『不明瞭な時の海岸で』刊行ー人生のブラックユーモアの側面を愛しています
2021年06月05日付 Cumhuriyet 紙
ムラト・ギュルソイ氏と、人間の魂の暗い秘密が時にはおどけて時には恐ろし気な雰囲気の中で物語っている新作書籍『不明瞭な時の海岸で(Bellisiz Anın Kıyısında)』のために会った。
私たちはムラト・ギュルソイ氏と彼についてあまり知られていないことを、ボアズィチ大学の事件に関しても詳しく話し合った。彼が子供時代からつけてきたという夢日記はかなり印象深いものである。それでは、どうぞ私たちの会話に・・・
―おめでとうございます。素晴らしい物語の数々です。いくつかの物語で私は悲しい気持ちになりましたし、いくつかのものについては大笑いしました。テーマのそれぞれは違っているように見えてもまるで、キャラクターたちとともに精神のうねりに入り込むようです。精神分析を学んだ、しなやかな知性の産物の物語です。アイディアはどのように生まれたのでしょうか?
この物語の数々は長年、私のノートに下書きとしてあったものでした。しかしご存じと思いますが、私は文学には物語を書いて始めたのです。1992―2002年の間に雑誌『幽霊船』を出版する際にかなりの数の物語を執筆しました。さらにそのあとでは、小説作品がさらに全面に出るようになりました。実際のところ、物語小説タイプにおいては、全体性に関しての疑いがありました。本は、短編小説のタイプであったとしても小説のタイプにおいては明確な全体性がその中に存在していなければなりません。全体性がもしなければ、それは、しかしながらコンピレーションということができるでしょう。この本のために執筆をした物語の数々における精神状態は、不穏さです。私たちの中にあり、さまざまな状況において位置を占める、様々な状況において現れ出るあの不穏にさせるような不明瞭な状態です。私たちはパンデミックの時期に生きていますし、この時期が生み出した自分たちに特有のある不明瞭でありそして恐怖の場所が存在しています。私たちはみな家に引きこもっていますし、お互いのことを怖がっています。上り下りをしているという感覚の状況に振り回されているのです。しかしながらウィルスの時代の前にも私たちは「ポスト‐トゥルース」、つまりは嘘の世界と呼ばれる時期を生きていたのです。そしてこの不透明さというのも生死に不安定さをもたらしていたのです。不安定さというのは、慣れ親しんであるものもありながら、同時にまた一方で非常に不慣れなものに思われるものということです。
たとえば、私たちの近しい人の一人が亡くなった時に、そのベッドにおいてはすでに一人の死者として横たわっている中で、そこから私たちにむかって真っすぐ広がってくる不穏な空気というものが存在しています。
私たちが慣れ親しんでいる場所で見失ってしまうこと、奇妙な夢、一台のパソコンに向かって話をすること、これらすべてのことは共通の方向の不穏な状況と私たちがいうことのできる一つの感情の状況です。これは私を大変に魅了するのです。
‐書籍において問いかけが行われることがなく私が一番好きになって、私も考えたことは以下のことでした・・・人間たちがより信頼できないのでしょうか、それとも記憶でしょうか?あなたはどのように考えているのでしょうか?
(笑いながら)この質問に答えることは簡単ではありません。実際のところ私は簡単な問いかけについて考えることは好きではありません。文学というのも実際に簡単に答えを与えるものではないのです。その逆に私たちがもっている知的な装置とともに答えを見つけることができなかったものをトピックに持ち込むのです。私の存在は一体なんなのでしょうか、真実とは正しいのだろうかと知覚をすること、ありとあらゆることをそれぞれのある通りに私は思い起こしているのです。もしくはそのほかの人々というのが真実を述べているのでしょうか。私たちが生きている時代においてはこのような種類の問いかけの数々がもう一段階更なる重要性を勝ち取ったのです。なぜならば私たちは不正確な雰囲気の中に生きているのです。一瞬でありとあらゆるすべてのことが変化をすることがあり得ます。むかしからこのようであったわけではないでしょう?恐らくにはそのようであったでしょう。しかしながら昔は、道具はずっと少なかったためそれがさらに組織だっていて、そしてゆっくりとした形で行われていたのです。学校において、百科事典において、メディアにおいて行われていたのです。メディアの重さと私たちが言っていることは、まるでアンサイクロペディアの重さのようなものだったのです。もちろんのこと壊れてしまったのです。壊れてしまったことは肯定的なもの、同時に否定的な結果をもたらしました。私たちの今日の文学者たちの各作品においてこのような問いかけが行われるのを見ています。私だけが行っているわけではありません。文学の自律的な側面を守ろうとしているたくさんの作家がいるのです。このことの大きな理由というのは、実際にはここでは大きな経済的な利益を得ることができないということです。ある仕事というのが、大きな経済的利益に変わった場合には、その時にはそれは、自由な領域であることから逸脱をし始めるのです。あなたはいつでも、それを失ってしまうことがあり得るのです。文学の今日における状況、また新たな作家たちの理解、その相違、また多様性といのは、私を興奮させます。私もその問いを問いかけようとしているのですし、問いかけ続けています。
―チェスというのは、実際のところは二つの精神の争いです。あなたの「トラップド」の物語においては、アルダは自身の精神が生み出したあるゲームの中にいるということなのでしょうか?自身の迷宮で彷徨っているときに、叔父はそのことについて年を取っている感情もしくは記憶と争いをしている状況なのでしょうか?これは興味をそそらせる物語ですね。あなたはどうおっしゃいますでしょうか?
その答えは読者の皆様がもたらしてくれることでしょう(笑いながら)。「トラップド(Trapped)」は本当に奇妙な物語の一つです。本当に一つの家で人間は、どうしてそしてなぜ居場所を見失ってしまうのでしょうか?私たちが生きている場所というのが一つの迷宮に一体どうして変わってしまうのでしょうか?様々な家具、また終わりの見えない数々の部屋、数を増やしてはまた減っていき、そのあとですっかりなくなってしまう家具さ
らにそのあとで人間たち、これらのすべてはこの家具の間をとどまることなく行き来しながら、一つの出口を探しながらかしそれでも探し出すことのできない、恐らくには見つけたくない人たち、私たちが打ち捨ててしまいたい、またその中から出ることを望まない子宮、そののちに様々なモノの孤独性、それらの物語、を変えること、少なくなること増えること・・・私の脳裏にはこのようなことがあったのです。さて、読者一体どのように解釈をするのでしょうか? しかしおっしゃる通り、また一方では興味深い物語です。
―物語を読んだのちには、私の興味がまた非常に活発になりました。ムラト・ギュルソイ氏が、各読者へと提供をしているのは一人の人間であったとしても、ムラト・ギュルソイとは果たして誰なのでしょう?常にある繭の中に生きながら生み出している人間というわけでしょうか?さぁでは、語り合いましょう。私たちみなが興味津々なのです・・・
一体どういえばいいのです?私がとても愉快な人間性の持ち主だとはいうことができません(笑いながら)。アイロニーを、人生のブラックユーモアの方向を私は愛しているのです。それは私にはかなり興味深いものに思われます。更には、いくつかの物語をずるっぽく笑いながら、「これは本当に可笑しい」といいながら執筆をしました。私の日常生活といえば、何年間にもわたって大学に居続けているのです。調べ物をすること、執筆すること、読むことそして教鞭をとることいった、私が愛してやまない仕事をおこなっているわけです。たくさんの学生たちと出会いました。私の最大の収穫といえば、その人たちと知り合いになることでした。私は17歳で大学の試験レベルを獲得しましたそしてすぐに、授業を行うための
様々なオファーがきたのです。20年間、プロフェッショナルの特別授業をおこないました。そののちにも、大学でエンジニアリングに関する分野の授業をおこなっています。アトリエを開いています。子供たちに、若者たちに、大人たちに、更には年配の人たちと仕事をする機会を得ました。外から見たときには、ひとつの繭の中で生きているように見受けられたとしてもまったく異なる形で人生の中を動いているのです。一方では、また執筆を行おうともしています。執筆プロセスは実際のところ89年以来、ルーティンとして私の生活の一部となっています。1989年に受賞したジュムフリエット紙のユヌス・ナーディ物語賞は私の人生において非常に重要でありそしてまた転換点となった場所を占めています。
■将来には更に強力な大学に
―ボアズィチ大学における様々な事件において学生たちとともにあなたが提示された姿勢、そしておこなった決定は、私たち皆にとって非常に重要でした。あなたは一体どのようなことをおっしゃいたいのでしょうか?将来に関して学校に関してどのようなことをお考えになっているのでしょうか?
大学において、決定権を持っているのは選出された組織、そして運営陣です。それが依拠しているのもまた、大学の自治性を担保する憲法です。私は将来については、最高にポジティブに考えています。なぜならば教員、学生、そして卒業生そして職員たちとともにこの原則の重要性を理解している状況であるからです。そのためにもまた大学を自分たちのものであろうとし続けますし、またそれを続けることでしょう。この発生したプロセスのおかげで、すべての人間が、学問の自治性がなぜ重要であるのかとよりよく理解をしたのです。なので、将来において更に力強い大学となることでしょう。
■家では皆が夢について語っていました
‐あなたは子供時代からずっと夢の日記をつけていらっしゃいますね。非常に面白いことです。夢について話をしましょうか?エレーヌ・シクスーとマルガリータ・ヨルセナのようにあなたも夢の日記を書くことを考えていらっしゃるのでしょうか?
夢の問題を重要視する家族で育ちました。家では皆が夢について物語っていました。夢が将来もしくは過去からの知らせをもたらすものだと信じられた環境なのです。私にもまた次第に夢の文化が形づくられるようになったというわけです。そののちに心理学を学ぶようになった影響もまたあり得ます。たとえば、私は人間の大多数が退屈な人々だと思っています。実際のところ、彼らが退屈していないということはわかりますが、お互いについては退屈してしまいます。なぜならば共通の言語を見つけることができないからです。私たちは、お互いの世界に対しては異邦人なのであり、そういうわけで退屈してしまいます。しかしながら最も退屈してしまうような人間の夢に耳を傾けてみましょう、まったくとても興味深い内的世界に出会うことになるでしょう。またそれは、あなたのものとそれほど変わりがないということをご覧になるでしょう。そしてこれもまた私の考えでは、性別から、文化から、年齢から、ありとあらゆることから独立しているのです。様々な夢を意識外のプロセスの跡を見出すこと、扉を開け放していくためによい道であると考えています。そのためにも、毎回ノートをとっています。それらを用いることもしくは出版するといった目的はありません。ただそのドアを開けてスペースを空けたままにしようとしているのです。
―さて、また戻ってみたときにあなたは夢を読んだときには解決もしくは将来に向かってのカギとなるサインは出来たのでしょうか?
いや、まったくそのような面白いことはありませんでした。昔の様々なノート、昔の夢を読み込むことは非常に興味深いことです。ただ以下のことに気が付きました。いくつかの夢というのは、30年前に見たのであろうと、更にもっと以前に見たものであろうとその事件を一段落目を読んだ時点ですぐに思い起こすことが出来ます。いくつかのものについては読んでいて、はいこれを見ていますと言っていますが、しかしながらそれほどには鮮明に思い出せないと言っています。いくつかのものについては、あるのですが、まったく思い出すことができません。これもまた私には非常に興味深いものです。また繰り返すテーマの数々、いくつかのパターンまた様々な要素が存在しています。すべてのものが一つの洞察をもたらしてくれます。これは一つの内面を見る方法でありますし、また非常に有益なものです。フロイドは、様々な夢を意識外へと向かう王道であると紹介をしたようです。このため、その道もしくは扉を開いたままにしておくというのが私のやりたかったことなのです。
■テーブルを囲むのが大好きです。
―「不明瞭なある時の岸で」は、とりわけ「スナとツナ」の物語においてはツナのキャラクターに関しては食べ物を選び出すことにおいてさえ解決することが出来ます。感覚的な飢えのために感覚的な食にツナは満足することができないのです。食べ物は、食べ物の食卓、そして家族は結合をさせるものであり、それと同時にまた混沌としています。母親の食事、家族はあなたにとって一体どのようなことを表しているのでしょうか?
家族との食事はより私の子供時代を思い起こさせます。そのころには大所帯の一人の子供として何人もの年をとった人間と食べ物を食べるのに飽き飽きしていましたし、また一方では面白いこともありました。大体の場合に、同じことを何度も何度も説明をしていたのですが、その儀式はそれでもとても気にいったのです。
―あなたは料理をするのでしょうか?
いえ、残念ながら。私は食事をつくることよりもずっと、一つのテーブル周りにいることが好きなのです。それは一方では結びつきを強めるものであり、また幸福になるようなことです。愛する人たちとともに、親友たちと一緒にいること、賑わいが長い間続く食卓の席というのはこのパンデミックの時期において私がもっとも恋しく、そして最も欠けていると感じたもののトップにやってきます。
食卓においてもまた、私にとって喜ばしい側面は、その食事がその中に一つの歴史、連続性、さらには伝統があるということです。少なくとも私たちのような国においてはこれは非常に魅力的なことです。数多くの国が持っていないようなまでに、異なる起源から様々なメニューが一同に介したのです。それぞれのものについて隠されている歴史的なプロセスを理解し、それを知りながら食事をするというのは素晴らしい喜びです。各地域の食べ物の多様性は私を非常に魅了します。
―あなたの友人たちと大きな食卓を囲む時というのはあるのでしょうか?
もちろんのことあります。私のモラリティを高く保つための最も重要な道というのは孤独にならないことです。よい友人たちと、よき親友たちと一同に介し続けることが出来るとうのは簡単なことではありませんが、それは連帯をもたらします。私たち皆にとって難しい時期となっています。それを乗り越えられる唯一の方法が、私たちが愛する健全な友人たちと一緒になることです。私もまたこの問題においては自分がラッキーであると感じています。私の近しい人たちと、私の読者たちと、学生たちとの交流は非常にホットでありそしてまた私の内側から生産をすることへと私を連れて行くのです。
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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:51363