■玉ねぎを讃えて
【エリアース・ハウリー】
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10月の抗議行動の時のレバノンの経験は、玉ねぎの美点について、ドイツ人小説家が描いたのとは根本的に異なるイメージを提示した。我々の玉ねぎは革命的で、後悔を起こすにふさわしい玉ねぎとは対照的である。しかし我々は玉ねぎでは不十分なことを知り、大きな落胆を覚えた。盗人集団によって運営され大多数の人々から拒絶されている腐敗した体制は、人々が通りを占拠しさえすれば崩壊すると考えていた。しかし、それは間違いだった。
人々の死や貧困、屈辱に泣かない体制は、たとえ世界中の玉ねぎの皮をむかせたとしても泣くことはない。
モロッコ料理において玉ねぎは研究に値する地位を占めているが、これは私の手には負えないことだ。なぜなら、信頼できる者のみが持つ知識を要するからである。例えば私の友人である学者のファールーク・マルダム・ベイは、2つの文学的傑作を提示した。モロッコ料理における玉ねぎの重要性を説いた『ズィルヤーブの台所』と最近アラビア語訳が出版された『フンムスの本』である。
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