■玉ねぎを讃えて
【エリアース・ハウリー】
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現代文学から玉ねぎが姿を消したわけではない。チリの詩人パブロ・ネルーダは、作品の中で「光り輝くガラス瓶、その葉は剣」と描写した。マフムード・ダルウィーシュは愛と混ぜながら言及した。「私の美しい女性よ、あなたは心臓とみずみずしい玉ねぎとを切り刻み、スミレのところへ行くのです。」ギュンター・グラスはそれを回顧録の表題にした:『玉ねぎの皮むき』。彼は「その中身を一文字一文字読むことができるように皮がむかれることを望む」玉ねぎを、自身の記憶へとなぞらえたのである。
しかし、稀な例外を除いて、我々の詩や文学の中にはほとんど玉ねぎを見つけることができない。現代の言語を支配してきたものの監視のせいだろうか。それとも何だろうか。
私には分からない。しかし分かっているのは玉ねぎの美点は数えきれず、それが蓄え持つ生命の味わいで我々の文学を豊かにしてくれるということだ。
私が玉ねぎに立ち返ったのは、レバノンにおける反革命の勝利と、体制の合法性の更新を目的とした議会選挙の規模にまで矮小化された変革プロジェクトの敗北に伴う無気力感が、我々をギュンター・グラスの酒場へ連れていってしまうことを危惧するからだ。この時、玉ねぎはその味わいを失い、我々の目を悲しみで焼くただの涙に変わってしまうのだ。
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