スレイマン・シャー廟は元の場所に戻されるのか
2024年12月13日付 Medyescope 紙
タハリール・アル=シャーム機構の主導でジハード主義者がシリアで政権を手にしたのち同国は新たな時期に入った。トルコの国境外にある唯一の土地であるスレイマン・シャー廟が元の場所に戻るかが話題となった。スレイマン・シャー廟の場所は以前に二度場所を変えていた。
トルコが支援するシリア国民軍は、クルディスタン労働者党(PKK)/人民解放軍(YPG)に対して開始した「自由の夜明け作戦」の中でテル・リファトに次いでミュンビジ(マンビジ)を掌握した。[シリアのクルド側の]シリア民主軍のマズルーム・アブディー司令官はアメリカの仲介でミュンビジを退いたのを認めた。
シリア民主軍とシリア国民軍との間で至った合意では、シリア民主軍がミュンビジのほかスレイマン・シャー廟の元の場所であるカラコザック村からも退く条項が入っているのが注意を引いた。関係地域から届く情報によると、廟を元の場所に運ぶために作業が続いており、さらには道が整備されている。
◾️国防省の発表
トルコ国防省関係者は、スレイマン・シャー廟が元の場所の戻されることが世論で話題となったのち、発表を行った。アナトリア通信の報道によると、「シリア北部にあるカラコザック村でテロを排除したのちにスレイマン・シャー廟が元の場所に戻るのか否か」の質問に次のように返答した。
「シリア国民軍が地域で前進しテロを排除する作戦は未だ続いている。動向を注視している。現地で適切な条件が整えば、この問題を討議することになろう。」
◾️アブディー司令官「協力の用意がある」
シリア民主軍のマズルーム・アブディー司令官からもスレイマン・シャー廟に関する発表があった。アブディー司令官はxのアカウントから発表を行い、アシュマ村境界内にあるスレイマン・シャー廟をカラコザック村の元の場所に戻す件で協力する用意があると述べた。
「我々は2015年イスラム国が醸成した脅威の時期に、スレイマン・シャー廟の亡骸をアシュマ地域に運ぶのを容易にし保護した点で貢献した。今日、歴史的な場所を保護するのに忠実であることを今一度証明する。スレイマン・シャーの亡骸を、以前の国際的合意に従い文化的遺産に敬意を表するという点で、元の場所に運ぶのを容易にするため、関係する全方面と協力する準備ができていると表明する。」
◾️トルコにとってスレイマン・シャー廟の重要性とは
スレイマン・シャー廟は、トルコにとって歴史的・文化的・国民的点でかなり重要性を持っている。スレイマン・シャー表敬衛所・廟は、トルコが国境外に主権をもつ唯一の土地である。
トルコ国境まで30キロの距離にある廟には、オスマン帝国の創設者オスマン・ガーズィーの祖父にして、エルトゥルル・ガーズィーの父であるスレイマン・シャーが眠っている。
オスマン帝国崩壊後、1921年10月20日のアンカラ条約、1923年7月24日に署名されたローザンヌ条約により、スレイマン・シャー廟は、トルコ共和国の領土として認められた。この諸条約の末、ジャバル城にあるスレイマン・シャー廟に警備兵を置き、旗を掲げる権利を得た。
1960年代の中頃、ユーフラテス川にタブカ・ダムが建設される予定となり、ジャバル城が水没する危険が生じた。シリア政府はトルコとスレイマン・シャー廟の移転の点で協議に入った。長い交渉の末、廟がアレッポ・ハサカ道上にあるカラコザック村近くに移されることが決まった。
1973年に廟はカラコザック村の1万96m2の土地に移された。
2011年3月にシリアで内戦が始まったのち、地域でイスラム国の脅威が高まったことがスレイマン・シャー廟に影響を及ぼした。2014年3月にイスラム国はカラコザック村を掌握した。トルコ政府は2015年2月21-22日にスレイマン・シャー廟とその周辺に向け「シャー・ユーフラテス作戦」を開始した。その結果、廟は、トルコ国境にあるアシュマ村に移された。この村はクルド人民防衛隊の支配下のコバニーにあった。
◾️8発のミサイルを撃たせる
同じ時期に時のアフメト・ダヴトオール外務大臣(注1)と国家諜報機構のハカン・フィダン長官も参加した高官たちの、シリア介入を扱う会議(注2)の中身は、ギュレン主義者たちにより漏洩した。フィダン長官は「必要ならシリアに4名を送り、トルコに8発のミサイルを発射させ戦争の口実を作りスレイマン・シャー廟を急襲する」と発言していた。
◾️作戦ではクルド民主統一党・人民防衛隊は協力したのか
クルディスタン労働者党の指導者アブドゥラー・オジャランは、2015年3月21日にディヤルバクルでのネウルーズの祝祭にメッセージを送り、「さらに地域・国際社会双方にとって重要性をもつコバニーの抵抗・勝利を歓迎する。これを元に育まれた「アシュマ(エシェメ)精神」を人々の間の新たな歴史のシンボルとして歓迎する」と発言していた。(注3)
その時期にクルド民主統一党のサーリフ・ミュスリム共同代表もシャー・ユーフラテス作戦を調整するためにトルコにいたと発言している。ミュスリムは、「イスタンブルにいた。アンカラでは作業班を作っていた。だが好きな時に私はコバニーとも作業班とも連絡をとれた。彼らの連絡先を知っていた。その時期、危機会議とも関係していた」と述べていた。
トルコは作戦にクルド民主統一党・人民防衛隊の協力はないと訴えた。
(注)トルコ外務省のウェブサイトによると、アフメト・ダヴトオール氏が外務大臣を務めたのは2009年5月2日から2014年8月28日までである。
(注2)関連過去記事 シリア外交政府トップ会議の内容、漏洩 (2014年03月27日付 Radikal 紙)
(注3)関連過去記事 デミルタシュHDP党首「政府とエルドアン大統領の間に亀裂」(2015年03月25日付 Hurriyet 紙)
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翻訳者:トルコ語メディア翻訳班S
記事ID:59252