エリート主義的普遍主義の時代におけるヨーロッパー人種差別と民主主義の危機

2026年02月08日付 Medyescope 紙

ヨーロッパで高まっている極右の勢力は、一時的な政治的過激派ではない。現代ヨーロッパが押さえつけてきた歴史的な遺物の政治の中心への回帰である。民族主義者たちは、今日において少数派ではない。安全保障問題と中央の政治を介して一般化されつつあるのだ。この転換はヨーロッパにとどまる問題ではない。彼らと歴史的、そして政治的な繋がりのあるトルコにおいても将来に直接的にかかわってくる問題だ。

トルコは、ヨーロッパ連合の議論になっている経済(繁栄)そして人権(自由)の基軸に挟み込まれてしまっている。ヨーロッパが、法的な自由そして組織的な基準の上に理想化される中で、このスタンダードが、だれに対して、どのような諸条件の上に、そしてまたいかなる境界の中で適用されているのかという問いをシステマティックな形で無視をしているのだ。

また、ヨーロッパにおける危機は、その価値が欠けていることを意味しない。その価値が、エリート的普遍化されていたことに問題がある。人権そして、平等の原則を普遍的なものと宣言しておきながら、この普遍性の行使が「ヨーロッパに似ているものたち」にのみ制限されていることに問題があるのだ。ウクライナの難民が問題となっているときに、開かれていた扉が、シリア人たちそしてまたアフタにスタン人たちに対しての防衛の扉へと転換したのだった。この図というのは、普遍的な価値よりも、アイデンティティに基づいて動く統治者の同情の在り方を示している。

ヨーロッパにおける危機の基準は、欠如していない。その基準が誰のために有効であるのかについての政治的な優先順序付けがあるのだ。

このためにヨーロッパで起こっている進展を一時的な「極右の波」として分析するのは、問題を軽くみなしてしまうことになりかねない。中央で起こっているのは、リベラル民主主義が自身の中で、過激化して、中央の政治が排外的なイデオロギーを再び作り上げているということなのだ。

■民族主義は偏向ではなく、基盤にあった思想

ヨーロッパが自分自身を人権と普遍的な理性の持ち主として提示していることは、エリート思想に基づいているものだ。民族主義は、ヨーロッパに後に付け加えられた異常事態ではない。現代ヨーロッパの基盤となっている思想の一つだ。植民地主義、奴隷制度、ホロコーストの慣習:これらは進歩主義、理性と文明化の言説と同時に発展を遂げたのだ。

このために今日の民族主義の興隆は、「遺物の復活」として見ることは誤りだ。起こっている事態は、抑圧された一つの継続が、現在の条件において再び見える形になったということなのだ。

民族主義は、ヨーロッパの近代主義の恥ずべき事態ではない。長年その機能を担った、政権の手段なのだ。

■文化的な民族主義と安全保障問題化:静かだがより危険

20世紀の後半以降、民族主義は、明らかな遺伝子学上の優勢を主張することをやめた。
しかしこれは撤退を意味しなかった。戦略の形式変化のプロセスであったのだ。今日、ヨーロッパにおいて民族主義は、明らかな遺伝子学のヒエラルキーに基づくものではなく、文化と生活様式そして同化の言説に基づいて操作がなされているのだ。問題はもはや「劣等民族」ではなく、共存することが不可能とみなされる生活の様式なのだ。

この転換は、民族主義をさらにも閉鎖的にし、正統化し、そして持続性のあるものにした。民族主義は今日において理想主義のスローガンではない。報告書、リスクの分析、そして安全保障プロトコルの上で取り扱うテクニカルな統治言語の状況になったのだ。
ムスリムたちを「嫌悪される対象」ではなく、「リスクをもたらす」集団としてコード化しているのだ。

新たな民族主義者たちは、叫ばない。寸法を測り、カテゴライズし、法原案を作り出す。


冷戦の間、アンチ共産主義によって作り上げられた政治は、1990年代以降システマティックな形でアンチ・イスラムの基軸へとずらされたのだ。この傾向は、少数派だけにとどまらない。安全保障の官僚、主流の政治、そしてメディアの共通の嗜好だったのだ。

■極右はなぜもはや「極」ではないのか?

この歴史的そして政治的基盤の上に興隆をしている極右は、ヨーロッパの政治的中心に根を下ろしている状況だ。極右勢力政党が獲得した大きな得票は、「ショック」ではない。新しい規範を提示しているのだ。
根本的な崩壊の地点は、中央の極右がこの興隆に対して抵抗をする代わりに、その言語と優勢の思想をわがものにしたことだ。

極右が勝利をしたからではない。中央がその言語を規範化したために強くなったのだ。

リベラル民主主義が今日冒している根本的な誤りがここに表出している。極右勢力は、一つの脅威としてではなく、コントロールされる必要があるデータとして取り上げているのだ。このアプローチは、民族主義と対峙させる代わりに、それをシステムの中に統合することを志向する静かな共謀犯罪を指し示している。

(中略)

■結論:より難しく、そしてさらに不快にさせる問い

ヨーロッパは今日道を分かれようとしているのではない。その分かれ道はとっくに過ぎている。もはや問題は、多元主義と平等の精神を守れるかどうかではない。

本当の問題はこうだ。ヨーロッパは自身の中心に再び作り上げたヒエラルキーを倫理的な問題として見なすのか、もしくはそれを「民主的に統治可能」という衣装の下で持続的な政治システムへと転換するのかどうかだ。

この疑問への答えは、ヨーロッパがどの価値を守っているのかではなく、どの不平等とともに生きるのかが認められることにより提示されるだろう。


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る

同じジャンルの記事を見る


翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:61618