健康を害しているが前線へ送られた軍評議会の老軍曹
2022年05月31日付 その他-ミャンマーナウ紙 紙
個人番号TA-15522、ティンソー軍曹、第559軽歩兵大隊
個人番号TA-15522、ティンソー軍曹、第559軽歩兵大隊

軍を離れることを許されていなかった57歳の軍曹は、前線に行きたくないと将校に懇願したが、クーデターの6ヶ月後に前線へ送られた。

カレン州ミャワディー郡テーボーボー村にある軍基地を、カレン民族解放軍(KNLA)と国民統一政府(NUG)の連合中隊がコブラ縦隊に合流し5月19日に占領したが、その際に捕らえられた兵士6人の中に57歳のティンソー軍曹が含まれていた。

同軍曹は兵士人生が始まった 2 年後の 1997 年にタニンダーリ管区ボウッピン市を拠点とする第559軽歩兵大隊内で清掃を行っていた時、カリンの木に押しつぶされてひどい怪我を負った。この怪我のせいで脾臓を摘出せねばならなかったが除隊は許されなかった。

25年間ずっと除隊を許されなかったのだ。クーデター後全国で戦闘を始めた軍評議会は年齢問わず全ての兵士を前線へ送っており、ティンソー軍曹もそのうちの一人である。

ミャンマー・ナウは現在タイ・ミャンマー国境のある場所にて捕虜生活をするティンソー軍曹を含む兵士へ5月26日にオンライン経由でインタビューをした。

固定給を得ていることと診断書が破損してしまったせいで除隊する計画を続けて進められなかった、と著しく深くくぼんだ目元のくすんだ眼で見ながら、インタビュー時に軍曹が述べた。

「診断書は雨に濡れてしまってコピーを取っておかなかったため除隊できない状態なのである。それがないので除隊できない。」

基礎教育課程の小学校レベルですら修了しなかったその軍曹は、腹部を切開し脾臓を摘出し縫合しなければならなかったとだけ言い、自身の健康状態さえも十分に説明できない。

「あまり体調がよくない。ぐったりしたり、動悸がしたりする」と捕虜生活となり骨と皮だけになっている軍曹は現在の健康状態を説明した。

体調が非常に悪いが昨年8月に前線に出るようにと命令が出た。軍がクーデターを起こして半年経過したときのことである。自分の大隊から約600マイル離れているカレン州内の国境沿いのある場所の前線基地へ送られた。ミャワディー郡にあるウカリッタという名前の前線基地である。

後方に6歳の娘が残った。妻に促されたので前線に行きたくないことを関係する将校に懇願したがうまくいかなかったとティンソー軍曹が述べた。

「(命令を)拒否することは不可能だ。言うには言った。言ってもだめなのでついていかねばならない。兵力がないので私で補充している。」

5月上旬に任務についた基地からミャワディー市の北側30マイル以上離れたところにあるテーボーボー基地へ再度派遣された。KNUと協力勢力が(軍側基地を)占領する前およそ1週間のことであったと言う。テーボーボー基地に到着したはっきりとした日付を、60歳になる間際の軍曹は覚えていなかった。

「私を人がいないので呼んだのだそうだ。物品の見張りくらいだと言って呼んだのだ。監視所などで見張れと。」

丘の上にあるテーボーボー基地へ革命勢力が5月18日深夜に重火器で攻撃し始め、翌日午後に占領したと捕虜が述べた。

基地を攻撃された時、逃亡している間に捕らえられた兵士6人は、戦闘時の詳細を明らかにしていない。

同時に、兵士の家族に対し軍評議会による圧力をかけさせたくないため、革命組織責任者の要請により、一部の情報をこの記事では説明できない。

捕虜が述べる彼らのこと

捕虜として捕らえられているが拷問をされていることはない、と軍評議会兵士6人全員が述べた。6人の中で23歳と32歳の2人だけ若く、残りは45歳、50歳、53歳と57歳である。

テーボーボー基地で当初から任務に就いていた人は(捕虜6人のうち)1人だけである。カレン州チャーインセイジー市を拠点とする第32歩兵大隊のナインエー軍曹である。今年1月にテーボーボーに到着した同軍曹は50歳だ。

捕虜全員の中で最も高い学歴を持っている者でもある。基礎教育4年生(翻訳者注:小学校最終学年)の課程を修了し試験に合格した軍曹である。

チョートゥン軍曹は53歳、ミョーリンゾー副軍曹は45歳、マウンタイとナインリンアウンは23歳と32歳の兵士である。

タイ・ミャンマー国境山地内のある場所にあるテーボーボー基地に革命勢力がやってきて攻撃する可能性があることについて上司が注意をしていたと捕虜が述べた。

「やって来て攻撃するだろうとだけ言った。自分を攻撃したら反撃しろと言うので私たちも攻撃した。最終的にみな一緒に入ってきたので私たちも反撃せずに降参した」とミョーリンゾー副軍曹が述べた。

基地に常駐する部隊ではなく銃弾を240発のみ所持していたので、戦闘中に困難があったとも同副軍曹は続けて述べた。

「(銃弾は)与えられていない。自分自身でさえかなり厳しい状況にある。自分も彼を助けることができない、彼も自分を助けることができない」とミョーリンゾー副軍曹が再度述べた。

基地が攻撃された際、逃亡している間に戦死したテーボーボー基地司令のアウンニェインチャン少佐も援軍がないことを同じ境遇の軍の将校1人へ不満を漏らした。革命部隊が(基地を)占領したと伝えたアウンニェインチャン少佐の携帯電話からそれが分かった。実際に同少佐所有の携帯電話だったのかどうか確認できない。

基地への攻撃を受ける前に副大隊長の1人でもある少佐が他の基地にいる1人の将校とソーシャルネットワークを通じて述べていたことである。「援軍もなければ援護射撃もない、弾薬も補給できない。いつまでこのままの状態なのか分からない」と同少佐は嘆いている。

テーボーボー基地には遠くを撃つ迫撃砲、爆弾、機関銃があるが、武器弾薬が十分に揃っていないことを基地に常駐するナインエー軍曹も否定はしていない。

「弾薬を援助できないというのは、道路を(革命勢力が)封鎖しているので来ることができないのだ。食糧は基地にある」と同軍曹は述べた。

ところが基地には少佐レベルの基地司令を含め兵力が25人しかいなかったとナインエー軍曹のもとから分かった。

「無線では(援軍が)来るだろう、来るだろうとだけ言っていた。実際には来なかった」とナインエー軍曹が述べた。

その兵力は通常通り(の人数)であるとクーデター後に軍(の任務)を放棄してきた士官学校(DSA)54期生、30歳のCDM(翻訳者注:市民的不服従運動に参加した、つまりここではクーデター後に軍の許可の有無を問わず軍に反旗を翻して辞めたという意味)リンテッアウン大尉が述べた。

ところが、危機に直面したら合流できる予定の20人前後が所属し、地上部隊基地の近隣一帯に(合流する兵士が)必ずいなければならないという前線基地リストにテーボーボーも含まれる、とその場所で2015年に4か月間任務を遂行したことのある同大尉は指摘する。

テーボーボー基地での戦闘で革命勢力側の兵力がどれほど使用されたか知らないが、軍評議会が航空援護射撃を35回行ったにしてはうまく占領できた、と戦闘に加わったコブラ縦隊の責任者が述べている。

捕虜は自分たちの軍が航空援護射撃を行った回数とその結果を述べているが、状況は一致していない。爆弾を2回投下したと述べる人もいるのと同時にそれよりは回数が多いが覚えていないと言う人もいる。

空からの攻撃の効果の有無について「効果があったかなかったは分からない。(捕虜である自分たちがいた)丘の上には1度も落ちていない。(革命勢力が包囲する)側ばかりにだけ落ちた」とナインエー軍曹が述べた。

チョートゥン軍曹は航空機から投下した爆弾は丘の上へ落ちたと述べた。

「航空機での援護爆撃は丘の上全てを攻撃した。彼のが命中する、自分のが命中すると言ってすべて投下したのだ。(丘から)降りて逃げたから(無事だった)。逃げなかったら死んでいた。6、7個ほど落ちてきた。」

ミョーリンゾー副軍曹がテーボーボー基地のある丘の上へ爆弾を落としたときというのは、戦闘が半日を過ぎた時間の午後2時頃に基地司令アウンニェインチャン少佐が撤退するよう命令したあとのことであると述べた。

戦闘中、副大隊長アウンニェインチャン少佐、ハンリントゥン中尉とその他の階級の3人を含む5人が死亡し、自分たち側は3人が死亡、4人が負傷したとコブラ縦隊広報責任者が認めている。

捕虜は命がけで逃亡しており、戦闘中の死亡を詳しく知らなかったと述べた。

共に逃亡しながら基地の丘付近のある場所に残ったアウンニェインチャン少佐が死亡したことさえも革命勢力が言って初めて知った、とナインエー軍曹が述べた。

同様に戦闘時にタイ側に逃亡し後日ミャワディー市経由でミャンマー側に戻ってきた軍評議会側の14人に関して、捕虜に尋ねることができなかった。その人々の中にポーター(使役のため無理矢理連れてきた地元民)が何人か含まれるという点については捕虜全員が否定した。

テーボーボー基地占領の経緯と軍内部の状況

テーボーボー基地が攻撃されたとき捕らえられた軍評議会の捕虜は、軍評議会の現在の軍内部の状況を説明している。年配の人たちであるだけでなく骨と皮だけの姿が明確になっている。

テーボーボーの占領経緯から、軍勢力の弱まりは事実であることを軍歴10年のCDMイェーミン大尉が述べた。大尉はシャン州北部で任務についていながら4月中に軍隊を放棄してきた人物である。

自分が最後に任務についた前線部隊で、5年の間に自ら計画し準備して新人兵士2人を補充することができたことを除いて、軍隊の援助は皆無だとイェーミンウー大尉が述べた。

「5年間に一つの部隊へ兵力の補充をしてやれなかったというところから軍の力を考えてみてほしい。前線に出ることができる勢力、攻撃できる勢力が残っていない。」

同様に若者がしばしば逃亡しているので、地上戦に加わらなければならない下位の階級に年を重ねた副軍曹、軍曹、上級曹長、准尉といった階級の者ばかりが多く残っている、とイェーミンウー大尉が述べた。

「年を取っている兵士は全員アルコール依存症を引きずっている、苦しんでいるのだ。私たちが前線で出くわしたのがそういったことだ。戦うことは将校たちの主な仕事ではない。酒飲みたちの世話をするのが仕事の一つだ。」

軍の指導者はこの状況を無視して、学校教育を十分受けていない下位の兵士を月給、食糧、軍所有のミャワディー銀行にある預金、兵士用宿舎、退職金という縄で縛りつけて支えている、と先の大尉が述べた。

また、大尉は、そのように精神的、肉体的に落ち込んだ状況で軍の組織構造が崩壊し機能していないことは事実である、と述べた。

「兵力が一定しないと組織構造も定まらない、組織構造が定まらないと任務が定まらない、任務が定まらないと行動が定まらない、行動が定まらないと地上で本当に敵と味方で最後まで戦い抜くときに戦闘能力もない。」

テーボーボーの基地占領経緯から、イェーミンウー大尉が指摘した点は非常にわかりやすい。25人いるテーボーボー基地とその付近で抵抗しながら死亡した軍評議会の軍人は5人だけであった。

タイ国境を渡り逃亡した14人、基地を放棄して逃亡したとき革命勢力が捕らえたのは前述の捕虜6人である。逃亡した兵士の人数は基地にいる兵力の80%である。

捕らえられた捕虜に対し、釈放されたら軍隊に再度入るか否かミャンマー・ナウがインタビューした際、その話は終わった(もう入隊することはない)と6人全員がきっぱりと述べた。(釈放されたあとで軍の取り調べを受けた場合は)投獄されたあとに再度入隊できるであろうということも、ナインエー軍曹が指摘した。

クーデターを起こした軍の指導者に伝えたいことの有無を尋ねた際は話を逸らされた。

軍の指導者を批判する勇気がないが同じ境遇の下級兵士のため、ナインエー軍曹が以下のように願ってくれた。

「戦闘が起きて逃亡するなら私たちのようによい人々と出会いますように」と。

2022年5月31日 ニャンフラインリン

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( 翻訳者:A.I )
( 記事ID:6381 )