ウィラント氏、活動家の誘拐はプラボウォ氏の主導と言及

2014年06月19日付 Kompas 紙
マルク・ムスリム青年戦線がプラボウォ、ハッタ正副大統領候補への支持を宣言した際に演説を行う、大統領候補のプラボウォ・スビアント氏
マルク・ムスリム青年戦線がプラボウォ、ハッタ正副大統領候補への支持を宣言した際に演説を行う、大統領候補のプラボウォ・スビアント氏
ジャカルタ、kompas.com配信
 ウィラント元インドネシア国軍司令官は、1997年、1998年に起きた活動家誘拐事件で、最も責任を負うべきなのは誰なのかについて再び言及した。同氏は、活動家の誘拐を主導したとの理由で、プラボウォ・スビアント元陸軍戦略予備軍司令部中将に最も責任があると述べた。
 
 ウィラント氏は、この活動家誘拐事件は1997年12月から1998年3月の間に起きたと述べた。同氏によれば、当時はまだフェイサル・タンジュン氏がインドネシア国軍司令官として職務を遂行していた。同氏はフェイサル氏に対し、活動家誘拐の指令を下し、抑圧的な行為を行ったかどうか尋ねたことがあるという。
 
 ウィラント氏によると、その時ファイサル氏はそのような指令は下したことはないと言明したという。ウィラント氏によると、自分がフェイサル氏に取って代わったのち、インドネシア国軍の命令は説得や対話、コミュニケーションによって行われた。実力行使ははやむを得ない状況やインドネシア国軍司令官の命令のもとでしか行われなかったと同氏は続けた。

 当時、国軍司令部は誘拐という極端な指令を下すような方針はなかった。どこで、何のためにそんなことをしたのかと尋ねたときに、それは(誘拐は)、当時の状況に対する分析に基づいて独自の采配で行ったことなのだと私は確信した。個人の分析に基づいてであって、司令官やプラボウォ氏自身の上司の命令によるものではない」とウィラント氏は述べた。

 ウィラント氏は活動家の誘拐について多くの正当化が行われているがゆえに、このことを明らかにする必要があると告白した。ウィラント氏はまた、自身がプラボウォ氏による拉致には関与していないことも言明している。インドネシア国軍司令官に就任した時、ウィラント氏はまさにその暗い事件を調査しようとしたと述べている。

 人権団体「コントラス」の記録に基づくと、当時、23人の活動家が消息を絶った。そのうち1人(レオナルドゥス・ギラン氏)は死亡した状態で発見され、9人は解放され、そしてその他の13人は現在なお行方不明である。解放された9人にはプラボォ氏とともにグリンドラ党に加わった、デスモンド・ジュナイディ・マヘサ氏とピウス・ルスティラナン氏らがいる。

 その事件に対して、インドネシア国軍は当時の陸軍大将、すなわちスバギヨ・ハディシスウォノ氏 (現在は退役)を議長とする軍人名誉評議会を設置した。軍人名誉評議会の捜査の結果、プラボウォ氏は指揮命令に従わなかったとして罪を問われた。プラボウォ氏はこの事件をもって軍職を解任された。


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翻訳者:西林明秀
記事ID:858