パンチャシラ記念日、スマランの犠牲者24名の墓に墓碑

2015年06月11日付 Kompas 紙
6月1日、スマラン市ウォノサリ村プルンボンにて発見された1965年の犠牲者24名の墓。森の中の二つの墓は市民によってに、ようやく墓碑を与えられた。
6月1日、スマラン市ウォノサリ村プルンボンにて発見された1965年の犠牲者24名の墓。森の中の二つの墓は市民によってに、ようやく墓碑を与えられた。
 
スマラン、kompas.com配信
 1965年の9.30事件における行方不明者たちについてが明らかになりつつある。ジャワ中部の町、スマランで、少なくとも24名の犠牲者が2つの墓穴の中に埋葬されていた。

 その2つの墓に“消えた”住民の一部の名前が記された墓碑がしつらえられた。その墓碑は、家族が彼らの両親や親類の在り処を知ることができるようにと設置された。

 その墓所では、一人ごとに土の山や墓石はなく、今回の犠牲者24名も2つの墓穴にひとまとめに埋葬されていた。

 時がたつにつれて、墓は周囲をぐるりと取り囲むようにおかれた石で印づけられるようになった。墓の周囲には高くそびえる木も立っていた。

 基本的人権を求めるスマランの市民団体のコーディネーターである、ユナントヨ・アディ・S氏は、1965年の犠牲者のための墓碑の設置は人道的使命のかたちであると語る。またユナントヨ氏はその設置は、過去の暗い歴史の標でもあり、文化の一部でもある、と語る。

「我々は、彼らが誰なのか、彼らの思想がどういったものなのかを問題にするつもりはない。けれども、彼らが法的な手続きを経ずしてで処刑されたというのは事実である。それゆえに、今後このようなことを二度と起こさないための人道的な使命がこの碑石にはあるのだ」とユナントヨ氏は月曜の墓碑の落成後に語った。

 1965年の犠牲者とされる人々の墓はスマラン市、ガリヤン郡ウォノサリ村のプルンボンで発見された。その場所はそれまでしばしば、“トゲル(違法くじ)の番号に関する啓示を得るための儀式の場として用いられてきたが、専門家らによる調査によってその墓が1965年に拉致された犠牲者のものと判明した。
 
 以前よりその墓を世話していたプルンボンの住人は、今回の発見によってその墓地が1965年の犠牲者たちのものであると知った。
 
 「われわれが善良で、(この場所を)世話してきていたのは幸運なことだった。住人たちには墓碑を建てたり、合同礼拝をささげたりなどということを思いつく由もなかった。これが過去の痛ましい歴史に和解がもたらされる契機となってほしい」と住人は語る。

 プルンボンの有力な住民の1人で、クリック婆さんと呼ばれているリリック・ウィラルジョは、彼女の村にあるこの墓は40年近くものあいだ世話をされていたと述べた。そこはクンダル地方の森林公社の土地であったにも関わらず、住民たちは手厚く墓を世話したのだ。

 「私は、それらは単なる犠牲者ではなく、65年に起きた国家規模の事件の痕跡であると思っている。私たちは今後、次の世代がこの墓の存在について知ることができるよう、墓に墓石をしつらえることは大事だと思う」と彼女は加えた。

 行方不明となり、埋葬されていた住民全員がクンダル県の出身だった。一部の犠牲者はグム郡とプグンドル郡の出身だった。

 ユナントヨ氏は「暗い歴史が繰り返されることのないよう強く求める」と、述べた。

 この墓碑落成には地域の有力者と住人一同、スマラン市、ガリヤン郡、ウォノサリ村からの代表、大学生、活動家や歴史研究者らが参列した。森林公社の代表やスマラン地区警察も墓碑の落成に参列した。

 参列者たちは、1965年に犠牲になった元住民のための墓碑落成の様子をともに見守った。


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翻訳者:戸出圭祐
記事ID:1548