アタテュルク大学のキャーズム・カラベキル教育学部のトルコ語科のルトフィ・セゼン助教授は、9年前にこの世を去り、トルコ映画界(イェシルチャム)の忘れられることのないスター、ケマル・スナルが映画でつかんだ栄光を研究した。セゼン氏は、「ケマル・スナルのユーモアは、私たちを取り囲んでいる愚かさや利己主義に反抗するものである。このため、ブラックコメディーでもあり、人生の事実でもある」と語った。
キャーズム・カラベキル教育学部のトルコ語科のセゼン助教授は、マラトゥヤ県のドアンヨル郡ギョクチェ町で1944年11月11日に生まれ、2000年7月4日に56歳で亡くなった映画俳優のケマル・スナルの生涯と映画を研究した。セゼン氏は、全ての俳優同様、ケマル・スナルも、死後に名声が徐々に高まっているとし、次のように述べた。
「ケマル・スナルの最も大きな功績は、笑わせているときに、笑わせていることを気付かせないことである。すべての喜劇役者が成功しているのは、この特別な力のおかげである。
トルコの国民は自身の失敗や成功を、彼が主役を演じた映画を観て目にし、彼をたしなめたり、傷つけたりすることなく、笑いながら観ている。異なるチャンネルでほとんど毎日見ることの出来るケマル・スナルの映画を、「ケマル・スナルの真実」として評価せざるを得ない。誰にとっても単純で、容易に受け入れられる映画の主題は、トルコ人の実際の生活様式を反映している。
このため、彼の映画は、毎日繰り返し見られていても、飽きられるどころか、徐々に関心が高まった。ケマル・スナルを成功に導いた最も重要な理由のひとつが私たちの社会をとてもよく理解していたことである。ふつう、人々の日常の暮らしの傍らでは、抜け目のない無邪気さと、無邪気な抜け目のなさが、重要な位置を占めている。人には、一つの顔だけではなく、いくつかの顔がある。これらのうち、どれが本当の顔かを明らかにすることはかなり難しい。たいていの場合、(こうした抜け目のない)人はにせの仮面をかぶって、人生における役割を成功裡に演じるものなのだ。」
セゼン氏は、こうした人々がいつの時代も、「時代の申し子」であったとし、常に利益を念頭に置くことで社会に大きな損害を与えてきたという。
「ケマル・スナルは、多くの映画で、本当は危険なこの種の人たちを取り上げ、本当の顔を表に引き出そうとした。彼のユーモアは私たちを取り囲んでいる愚かさや利己主義、偽物に対する意識的な反抗である。人々は劇場で笑わされる一方、泣かせるこの方法を『ブラックユーモア』や『辛口ユーモア』と呼んでいる。ブラックユーモアという言葉は『笑っているけれども、心の中では泣いている』という意味だ」と続けた。
注意深く見ていると、ケマル・スナルの中に、人々を笑わせる笑顔の裏にある悲しみを見つけることができると語るセゼン氏は、次のように続けた。
「この悲しい笑顔の理由は、トルコ人の生活の何世紀来も続いてきた生活の中にある。人々の生活で重要な要素を占める、希望と絶望、貧困と富裕、恐怖と勇気、無邪気と抜け目なさ、美しさと醜さ、正しさと誤りのような対照と、無知に基づく血の復讐、慣習の圧力が、ケマル・スナルの辛口ユーモアの主題を形作っている。ケマル・スナルのユーモアを『人生を軽んじている』と考えるべきではない。『ケマル・スナルのユーモア』というのは、『笑いでまじめなことを表現する、笑いはまじめなテーマの妨げにはならない』ことを意味している。ケマル・スナルのユーモアというのは、『悪が隠している本当の顔を表面に引き出し、辛い現実に笑顔で立ち向かう』という意味である。簡潔にいうと、ケマル・スナルのユーモアは私たちを取り囲む愚かさや利己主義に反抗しているのである。彼の映画が人々の間で愛されていること、飽きられずに見られていることの本質にあるエスプリをわからない人は、(トルコの)人々と、その俳優を十分に理解していないのである。」
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( 翻訳者:猪股玲香 )
( 記事ID:17151 )