【ムハンマド・トゥルキー・ラビーウー】
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しかしこのことに注釈するなら、リフアトの文化人類学とその道具についての幅広い関心に関するバルキースの所見が興味深い。彼女はこの分野における夫の見識はハーバード大学で形成されたものではないとした上で、彼が幼少の頃より父親のカーミル・チャーディルジーが文化人類学に精通していたことを想起している。当時、文化人類学はヨーロッパの新しい学問とみなされていた。リフアトの父はフランツ・ボアズの著作を読破し、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』やマーガレット・ミードを読んでいた。
バルキースにとって不思議なのは、ポスト・コロニアルのエリートたちがのちに「文化人類学は”植民地学”である」としてこの分野と以後長きにわたり決別しようとする時に、イギリス占領期に国政を担う政治家であった父親のカーミルがこの分野に興味を寄せていたという点である。こうしてみると、30年代、40年代のエリートたちが国家のエリートたちよりいかに知に対してオープンであったかに気づく。文化人類学の道具に再び興味を持つようになったリフアトは、祖父のアーリフ・アーガーの家と座ることのヒエラルキー、及びイラク近代史におけるその意味の研究に取り組むようになる。
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