■レバノンに対する戦争は、一方の損害でもなければもう一方の利益にもならない
【本紙:ターリク・ミトリー】
そのためレバノン人らは、自身らの生活を再開されるまで戦争の終わりを待ちながら、自身らの土地で繰り広げられている戦争を傍観しているようには見えず、彼らの頭上を黒雲が通過しているようにも見えない。レバノン人らは、政治的相違を強く表明していたとしても、またヒズブッラーを含む多くの人々が望まない戦争へとレバノンを引きずりこむリスクに対して反対しているにもかかわらず、彼らは自らの損失が必ずしも相手側の利益になるとは確信しておらず、またかつて一部がそう飾り立てたようにイスラエルを解放者とみなしてもいない。おそらく多くのレバノン人は、「イスラエルが誰の友人でもなく、レバノンを完全に蔑視している国家であり、自身らも直接被害を被った1982年とその後に起こった出来事を筆頭とする過去の出来事に影響を受けて、繰り返し『レバノンの沼地』、『レバノンの泥沼』について語っている」ことを知っており、ないしはそう推測している。
当然ながらこれらすべてのことは、「戦争の引き延ばしが一方の利益になる」などとは陰に陽に考えることなく、レバノンに対する侵略の停止のために動くことに国民全員が合意することを必要とする。またレバノンを保全し、分裂や崩壊の危険を回避するために、国内での敵対心よりも重要な目標のもとに連合することが必要とされる。さらに、何が予想され何が望まれているのかに関して、最終的な判断を急ぐことを自制し、生活のすべての側面に及んでいる様々な相違を一時的に棚上げすることが求められている。分裂は避けられない運命ではなく、また力関係を根本から変更することはレバノンががれきから無事に脱出するための条件である。
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